ヴェンコフ リッダーブッシュ リゲンツァ マッキンタイア ミントン カルロス・クライバー指揮バイロイト祝祭管&合唱団 ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」(1976.7.30Live)

カルロス・クライバー最後のバイロイト音楽祭の記録。
1974年に初登場し、大成功を収めたカルロスの「トリスタンとイゾルデ」。
翌年も、そのまた翌年も当然招聘され、期待以上のパフォーマンスを繰り広げたカルロスの「トリスタン」は永遠に続くものと思われていたが、1976年、結局残り数回の舞台をキャンセルし、カルロスはさっさと引き揚げたという。

カルロス・クライバーについてはエキセントリックな風評のみが先行するが、一体真実は何だったのか?
それは、最後まで口を割らなかったカルロスのみが知ることであり、真相はわからない。
しかし、アレクサンダー・ヴェルナーが類まれなる人脈と情報収集力、そして機動力を駆使して成した伝記をひも解く限りにおいて、いかに彼が繊細で、同時に、一度嫌気が差すと二度と覆すことがない頑なさをもっていたことか、そして、様々なスキャンダルの中にあって、常にその心に傷を負っていたことがはっきりとわかって興味深い。

1974年、バイロイト音楽祭初登場にまつわるエピソード。

仮にカルロス・クライバーが、心の中ではこの契約を結ぼうと考えていたとしても、実際に彼を指揮者として迎えるには、個人的なつながりを必要とすることがほとんどだった。ここで、後年のクライバーの人生で、とりわけ大きな役割を担うことになる女性が登場する。ヴォルフガング・ワーグナーの娘エーファ・ワーグナーは、父親の事務局の一員として、すでに20歳代半ばにはバイロイト音楽祭の運営で責任ある地位に就いていた。クライバーの友人で、ギネス・ジョーンズの夫であり、音楽界を熟知していたティル・ハーバーフェルトは、クライバーとの契約において、エーファ・ワーグナーがキーパーソンだったと語る。「彼女がいなければ、バイロイトには行かなかったでしょうね。繊細な彼には、たえず彼のためにそばにいて、すべてに気を遣う人が必要だったのです。エーファ・ワーグナーは、クライバーの障害になるもの、あるいはなりそうなものを、ことごとく排除した。エーファはこう語る。「彼と知り合ったのは1972年のミュンヘンで行われた《ばらの騎士》上演の時です。いつバイロイトに出る気があるのかを訊いて来いと送り出されたんですよ」。エーファとクライバーはすぐに打ち解け、エーファの魅力と駆け引きの手腕を高く評価した。たしかに彼女がいなければ、クライバーはバイロイトに赴くことはなかっただろう。すぐにエーファ・ワーグナーとクライバーの色恋ざたが噂になった。クライバーは上演の前も後も、エーファのそばを離れなかった。
アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上」(音楽之友社)P401-402

天才指揮者の背後に女あり。
いつの時代もそんなもののようだ。
しかし、それによってかの「トリスタンとイゾルデ」の名演奏が生まれ得たのだから、僕たちは当然感謝すべきだ。

オーケストラとの共同作業も、比較的うまくいった。ヴォルフガング・ワーグナーはこう語る。「カルロス・クライバーが最初にオーケストラの前に立った時、全員の緊張が自然に解けていったのです。クライバーは楽員と連絡を密にしたため、彼が思い描いていた通りの、徹底した練習が可能になったのです。彼の要求は多岐にわたりましたが、楽員はそれが単なる饒舌ではなく、成果をもたらすと知っており、よろこんでその指示に従っていました。オーケストラをどのように扱うべきか、オーケストラから何を引き出すかを決めるのは指揮者なのです。彼のような偉大な指揮者であれば、楽員も、時には理不尽な要求に対しても我慢強く耐えられるのです」。
~同上書P408

この最初の年の実況録音がまた素晴らしい。。
(当時の舞台裏を知るにつけ、背後に多くの関係者の多大な努力の賜物であったことがわかって面白い)

ブリリオート リゲンツァ モル ミントン マッキンタイアー カルロス・クライバー指揮バイロイト祝祭管&合唱団 ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」(1974Live)

そして、「クライバーが振る《トリスタンとイゾルデ》は、新たな水準へと達していた」という翌1975年の舞台を迎えるのだ。

クライバーがとりわけ喜んだのは、スヴャトスラフ・リヒテルが思いがけず現れ、クライバーの比類なき《トリスタン》に祝いの言葉を述べた時だった。リヒテルは当日の日記に、クライバーが当節最高の指揮者であることは疑うべくもなく、自分が生きている間に、このような《トリスタン》を聴くことは二度とないだろうと書き残した。
~同上書P452

リヒテルお墨付きの1975年バイロイトの「トリスタンとイゾルデ」!!

カルロス・クライバー指揮バイロイト祝祭管のワーグナー「トリスタンとイゾルデ」(1975Live)を聴いて思ふ カルロス・クライバー指揮バイロイト祝祭管のワーグナー「トリスタンとイゾルデ」(1975Live)を聴いて思ふ

さらには、何と!バイロイトにとって記念すべき年1976年を最後に、途中キャンセルし、カルロスはバイロイトを永遠に去る。

だが、なぜカルロス・クライバーは指揮を放棄し、1976年8月11日の公演のあとでバイロイトを去ってしまったのだろうか。なぜ1977年の契約をすぐにキャンセルし、二度とバイロイトには戻らなかったのだろうか。
~同上書P471

クライバーとバイロイトの問題は厄介である。オーケストラとの不和はことの一面ではあるが、他方には、純粋に個人的な理由がある。突然持ち上がったワーグナー家とのいさかいは、クライバーとエーファ・ワーグナーの親密な関係と同様、音楽家の間では公然の秘密となった。クライバーは、エーファ・ワーグナーとの連帯のゆえにバイロイトを去ったという噂が広がるのに、時間はかからなかった。
~同上書P473

結局、ワーグナー家の家内騒動に巻き込まれたのだろうというのが一般的な定説だ。
カルロスはやはり頑なだった。 後々もヴォルフガング・ワーグナーはラブコールを送っていたそうだが、叶わなかった。

クライバーと友人付き合いをしていたマルタ・シェーラーも同じように考えていた。「別にバイロイトのことを軽く考えていたということはないのです。クライバーがわたしたちに、《トリスタン》についてくりかえし語ってくれたことからも、バイロイトに出演する前から、彼にとっては充分重要なことだったのです。〈愛の死〉を熱烈に崇拝し、『これはオルガスムだ』と言っていました。でも1976年に、彼は矢面に立たされ、ボロボロにされてしまいました」。
~同上書P474-475

1976年のバイロイト音楽祭。

第2幕のトリスタンとイゾルデの一層の官能。
相変らずリゲンツァの歌は妖艶だ。

特に、カルロスが「オルガスム」だと称した「愛の死」に至る第3幕全編は、カルロス・クライバーの3年にわたるバイロイトでのクライマックスであり、リゲンツァによる壮絶なラストに途轍もない(頭が真っ白になるほどの)感動を僕は覚える。

カルロス・クライバー指揮ウィーン・フィルのR.シュトラウス「英雄の生涯」ほかを聴いて思ふ カルロス・クライバー指揮ウィーン・フィルのR.シュトラウス「英雄の生涯」ほかを聴いて思ふ

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