モーツァルトの作品には初期の明るいソナタから後期の暗澹たるクインテットまでこの作曲家の晴れやかな調音を失ったことはない。それは恋人を失い、母親に死なれたパリ時代の作品のなかにも、死の予感におびえる絶望的な晩年の作品のなかにも、絶えることなく響いている。理智的で、洗練されていて、輝かしく、端正な形式美に満たされた甘美な調べ・・・。
「モーツァルト断章」
~「辻邦生全集19」(新潮社)P83
シェイクスピアとの比較の中で、辻さんはモーツァルトの作品をそう表現する。
果して晩年の作品が絶望的かどうかは横に置くとして、すべてが言い得て妙だ。
一切の無駄のない、そう、余分なものが排された、まさに「空(くう)」を示すような作品群。
この素朴さは僕の原点でもある。
中学生の頃、モーツァルトのト短調交響曲(カール・ベーム指揮ウィーン・フィル)を聴いて痺れた。
高校生になって、バックハウスの「モーツァルト・リサイタル」を来る日も来る日も聴いていた時期があった。
当時購入したアナログ・レコードを久しぶりに聴いた。
何の衒いもない、一聴バックハウスの演奏だとわかる、老練の、抑制された無心のモーツァルト。僕はやっぱり感激した。
刷り込みかもしれないが、K.332からK.330というA面の流れ、そして初期の明朗なソナタ、K.282からK.283と続き、最後に晩年の傑作の一つK.511へとつながるB面の「晴れやかな調音」。すべてのフレーズにバックハウスのモーツァルトへの愛情が刻印される。
シェイクスピアが自在に描いたようにモーツァルトも人間存在の在り様をなんと赤裸に見るのであろう。そこには当然プロスペロの虚無がひろがっていたに違いないが、モーツァルトの進行はその虚無でさえ捉えることはできないように見える。この無垢な魂に墓がないというのは象徴的である。シェイクスピアと同じく彼もまたすべてのなかに遍在しつづけたあまり、ついに自分という存在を無に化せしめるほかなかったように思えるからである。
~同上書P86
無垢であるがゆえに(真)、墓がない(虚)のだともいえる。
そもそもモーツァルトにそんなものは不要だったのだ。
バックハウスの演奏が感動的なのは、老巨匠にあって「無垢」を体現しているからだろうと思った。