血腥い復讐の物語だが、通底するのは人間の感情の背面に厳然とある愛というものだ。
人間誰もが本来もつ慈心が自我に封印され、古来その苦悩は悲劇として形にされた。
ソフォクレスのギリシャ悲劇を題材に、ホーフマンスタールは「エレクトラ」を戯曲化した。
その戯曲にオペラの可能性を感じたリヒャルト・シュトラウスは、数年後、ついに歌劇化のために動く。
お元気でいらっしゃいますか、そして《エレクトラ》の件はどうなっておりますでしょうか。あなたは思いもかけず大きな喜びへの期待を抱かせて下さいました。この期待がなお目覚めたままでよいのか、それとも眠りにつくべきか、ほんの数行で結構です。お知らせ下さいませんでしょうか。
(1906年3月7日付、ホーフマンスタールからシュトラウスへ)
~ヴィリー・シュー編/中島悠爾訳「リヒャルト・シュトラウス/ホーフマンスタール 往復書簡全集」(音楽之友社)P14-15
自身のリブレットに自信を持っていたホーフマンスタールの懇願。
シュトラウスは返信する。
私は以前と変わらず《エレクトラ》に非常に食指を動かしています。そしてもうすでにリブレットとして使えるように上手にカットもしてみました。ただ、まだ最終的なお答えを差し上げていないのは(最終的にお答えできるのはおそらく夏、つまり私が創作活動に専念できる時期になると思うのですが)、《サロメ》のすぐあとで、《サロメ》とさまざまな点で似たこの素材を、全く新鮮な気分で作曲できるだろうか、それとも数年後に、サロメのスタイルから一度ずっと遠ざかったのち、また《エレクトラ》に戻るのがよいのではないかと迷っているからなのです。
(1906年3月11日付、シュトラウスからホーフマンスタールへ)
~同上書P15
慎重なシュトラウスの性格が想像できるが、同じ手紙の中で「ホーフマンスタールの手になる脚本は誰よりも自分に優先権を与えてほしい」とお願いしている点から、シュトラウスとしても前向きに考えていただろうことは如実だ。シュトラウスは暴君チェーザレ・ボルジアを素材にしたものなどをぜひやりたいと言うのだから、争いや諍いや人間の持つ負の側面、怨恨に興味を持っていたのだろうと思う。確かに、この世の縁の大半は怨恨ゆえ、この大作曲家が負を素材に人間の醜さを徹底的に音で描き、そのことを通じて人間本来の愛というものを世界に届けようとしたのではないかと思われる。
結局、3ヶ月後にはシュトラウスは「エレクトラ」に取りかかるのだが、その後の二人のやりとりをみていると、「エレクトラ」がまさにホーフマンスタール=シュトラウスの合作たる逸品であることがわかる。
私はこの詩作に際して、何もかもを己のイメージに頼り、決して音楽には頼ろうと致しませんので、どうかご安心下さい。そしてそれこそ、私どもがご一緒に仕事をし得る、またなすべき唯一の方法だと信じております。ただ、あなたの音楽は、私に何かとても美しいものを付与して下さいます。その何かは、もちろんこれまで俳優たちや舞台装置家たちが、私に付与し得たものより、はるかに実り豊かなものなのです。
(1980年1月3日付、ホーフマンスタールからシュトラウスへ)
~同上書P30
ただし、合作とはいえ、各々が自律的に取り組んだ上での至高の作品であることを僕たちは忘れてはならない。
全編緊迫感の塊のような激烈な音楽が実に心地良い。
人間が創り上げた「現実」という虚構がここにはある。「エレクトラ」の物語は、ある意味現代の諸相の反映と言えまいか。お互いが恨みを持ち殺し合う世界などご免だと思いつつ推奨する悪党(仮の己)に対し、本性は死をもって抗議する。
冒頭の激烈な序奏と、最後のこれまた激烈な後奏は、似たような音調をもつが、その実中身はまったく異なるものだ。
エレクトラ
(立ち上がって、じっと彼女の顔を見つめる)
黙って、お踊り、
みんなここへ来なければいけないよ。
ここへ来て一緒におなり。
わたしは幸福の重荷をしょっている。
わたしはお前たちの前で舞踏するのだよ。
わたしたちのように幸福なものに、
ふさわしいことはただ一つあるだけだ。
黙って踊る。それだけだ。
(二三歩緊張しきった勝利の歩みを運ぶと、崩れるように倒れる。クリソテミスは彼女に近づく。エレクトラは凝りついたように倒れている)
クリソテミス
(下家の扉口まで走って行って戸を叩く)
オレスト。オレスト。
(沈黙。)
~「オペラ対訳プロジェクト」
沈黙は神なり。
この静けさを表現するのにシュトラウスは、猛烈な、爆発の如くの音響を駆使した。
ショルティの慧眼、オーケストラの甘美。