チョン・キョンファの実演にはこれまで幾度も触れた。
僕が聴いた中では80年代後半のそれは、(噂に聞く)若き日の、憑りつかれたような凄演から円熟の境地の入口に至り、堂々たる風趣の、同時に彼女の代名詞たる直感的なパッションに溢れる名演奏だった。
もちろん98年の、2夜にわたるリサイタルも渾身のもので、心から感激したことを思い出す。
20余年前、ほとんど閑古鳥が鳴くような状態の(大袈裟な言い方だが)サントリーホールで聴いたヴィヴァルディの「四季」も絶品だった。どうしてこんなにも素晴らしいキョンファのコンサートに、人が入らなかったのか? 今でも不思議でならない。
季節のテーマはよく取り上げられる音楽的伝統に組み込まれていて、ヴィヴァルディ以後も維持され、さらに頻繁になるだろう。ジャン=ジャック・ルソーもこの曲をフルート独奏用に書き直している。
われわれの目の前に大きな鳥瞰図が現れ、その絵が想起させる音楽がそれを補って完璧なものにする。腕の見せどころは音楽が詩的な語りにうまく取って代われるかという点にある。
~ジャンフランコ・フォルミケッティ/大矢タカヤス訳「ヴィヴァルディの生涯 ヴェネツィア、そしてヴァイオリンを抱えた司祭」(三元社)P189
そう、チョン・キョンファの「四季」は、「音楽が詩的な語りにうまく取って代わる」ことができていたのである。
何と内省的なヴィヴァルディであることか。
全曲通してチョン・キョンファの心の襞に触れることができるが、僕は彼女の弾く「冬」が殊更に好きだ。
だが、ひとたび家のなかに避難できれば、事態は一変する。もう苦しみはない。その逆である。快い家庭の雰囲気は暖かな暖炉で象徴され、その前で一日は「平安」となる。雨は小やみなく降り、われわれはほとんど心楽しくその雨を眺める。
そこで「ラルゴ」の出番である。まず独奏楽器が始まり、ついで第一、第二ヴァイオリンがピチカートのアルペッジョで窓ガラスや屋根を打つ雨の音を表す。さらにヴィオラによる第二旋律がチェロの速いフィギュレーション、火の燃える暖炉のパチパチいう音へと導く。
~同上書P198
厳しい終楽章アレグロが心に迫る。
「四季」の成功はヨーロッパ全域に及んだ。われわれはすでにルソーが写譜したことに言及したが、フランスのインテリ層においてこのヴィヴァルディの作品に対して絶大な賞讃が巻き起こることになり、ルソーの祖国にあって、高名な音楽評論家シャルル=アンリ・ドゥ・ブランヴィルによってとりわけ高く評価された。ドイツ、そしてイタリアの他の地方においても事情は同じである。
~同上書P200