フィッシャー=ディースカウ ヤノヴィッツ マティス プライ ベーム指揮ベルリン・ドイツ歌劇場 モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」(1968.3録音)

いつの時代も現実世界は茶番であり、その茶番を楽しむように果敢に挑戦して生きてきた人が天才なのだとあらためて思い知る今日この頃。一般には知らされていない歴史の裏側を知れば知るほど、そこには企みや意図が見え隠れする。しかしながら、すべて茶番とはハッピーエンドで幕となる喜劇であり、目前に起こる一つ一つを謳歌し心から楽しめるかどうかが良く生きるコツなのだとつくづく思う。

現実のエピソードを、いわゆる陰謀劇を極めて人間的な作品に昇華したモーツァルトの天才。歌劇「フィガロの結婚」は古今東西随一の傑作オペラであり、僕にとってその最初は、テレビで観たカール・ベーム指揮ウィーン国立歌劇場の1980年の来日公演だった。

高校生になったばかりの僕にとっては「フィガロ」といえど随分重荷だった。物語も音楽も初めて耳にしたものだから数時間のすべてを集中して視聴できたわけではない。それでもヘルマン・プライ扮するフィガロや、ルチア・ポップ演ずるスザンナ、あるいはアグネス・バルツァのケルビーノなど、その姿は今でもはっきりと脳裏に焼き付いている(もちろん、暗いオーケストラ・ピットからみえる老ベームの指揮姿もだ)。

ベートーヴェンの交響曲においては休止すらもが雄弁に語っているのと同様、《フィガロ》では同じモーツァルトでも、交響曲に用いられたとしたら適切とは言いがたかったであろう騒々しい半休止と終止のフレーズが、音楽化された舞台進行に、まさに唯一無二と思える方法で活気をもたらしている。そこでは陰謀と即妙な機転が激情と野蛮に対して―仮借ない―闘いを広げるのである。このオペラでは対話は完全に音楽となり、音楽それ自体が対話と化しているが、ただし、このことは管弦楽の精錬と応用を通してのみこの巨匠に可能なさしめたことである。
(リヒャルト・ワーグナー)
アッティラ・チャンパイ/ディートマル・ホラント編「名作オペラブックス1 モーツァルト フィガロの結婚」(音楽之友社)

ワーグナーの言う通りならば、「フィガロの結婚」を正面から正しく理解するには、優れた演奏が必須だということになる。最右翼は、屈指の名盤カール・ベーム指揮ベルリン・ドイツ歌劇場によるものだろう。

・モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」K.492
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン、アルマヴィーヴァ伯爵)
グンドゥラ・ヤノヴィッツ(ソプラノ、伯爵夫人)
エディト・マティス(ソプラノ、スザンナ)
ヘルマン・プライ(バリトン、フィガロ)
タティアナ・トロヤノス(メゾソプラノ、ケルビーノ)
パトリシア・ジョンソン(メゾソプラノ、マルツェリーナ)
エルヴィン・ヴォールファールト(テノール、ドン・バジリオ)
マルティン・ヴァンティン(テノール、ドン・クルツィオ)
ペーター・ラッガー(バス、バルトロ)
クラウス・ヒルテ(バス、アントニオ)
バーバラ・フォーゲル(ソプラノ、バルバリーナ)
クリスタ・ドール(ソプラノ、少女1)
マルガレーテ・ギーゼ(メゾソプラノ、少女2)
カール・ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団&合唱団(1968.3録音)

終始一貫するのはベームのモーツァルト愛。歌手陣は万全の布陣。音楽は大河の奔流のように涼しい熱をもって流れ、まるで大自然を謳歌する如く委ねられるのが特長だろう。
序曲から何と堂々たる威風よ。第1幕に入っても音楽は緊張感を保ち、進行する。ワーグナーが言うように、音楽それ自体が対話となっていることがやはり奇蹟のようだ。

ああ、これでみんな
満足するだろう。

苦しみと気紛れと
狂気のこの日を、
ただ愛だけが満足と陽気さで
終わらせることができるのだ。

花嫁花婿よ、友人たちよ、さあ踊りに行こう、楽しく過ごそう。
爆竹に火をつけよう。
楽しい行進曲の音に合わせて、
みんなでお祝いをしに行こう。

~同上書P215

「フィガロの結婚」は一同のこの合唱で終わる。実に意味深い。

人気ブログランキング


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む