明日からの2日間に備えて今日は静かに時を過ごした。「静かに」というのは音楽を聴かずに、ということではなく「心静かに」という意味である。お客様に自分自身が培ってきた全てを最高の状態で提供するために、とにかく邪念を払い、落ち着くことがとても重要なのである。
スターリンの大粛清まもないソビエト連邦において、いかにも子どものようなお茶目さとおどけた素振りを見せるドミトリー・ショスタコーヴィチの音楽はなぜかそういう日に邪魔にならず耳に心地よい。荒れ狂う世間の状況に背を向け、あくまで自らの心の内側を追及し「音の連なり」として表現していこうという作曲者の絶対的な意思がどの楽曲にも通じている。しかし、決して瞑想向きの音楽ではない。また、「静けさ」に支配された音楽でもない。
ショスタコーヴィチ:交響曲第6番ロ短調作品54
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1965Live)
ショスタコーヴィチの第6交響曲を聴くと、いつも僕は感じる。
暗鬱な表情を持つ長大な第1楽章は、何か「祈り」を感じさせる厳粛な音楽なのだが、第2楽章以降はなぜか妙に浮き足立ち、地に足がつかない状態でふわふわと浮遊し、着地点を見失ったかのような「曖昧さ」というか何というか、そういうものを感じるのである。終楽章のコーダで無理やり大地に根を張るように仕向けられるような違和感。
ただし、決して嫌いな楽曲なのではない。むしろ、好きな音楽だ。
※ウィキペディアで調べてみると、バーンスタインのこの曲に関する解釈が掲載されていた。なるほど・・・、である。
この曲が作曲された1939年に、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まったが、独ソ不可侵条約により、ドイツはポーランドのソ連領には侵攻しなかった。「我が国は平和だ。よかった、よかった。」この、いわゆる偽善を表しているのが、第2楽章、第3楽章である。
~レナード・バーンスタイン
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