
楽劇が進むごとにその音楽が熱を帯びる様子がよくわかる。
ドイツ語を母語にしないミラノの聴衆にとって、ワーグナーの音楽そのものを享受すること、そして何よりフルトヴェングラーの演奏を聴くことが目的の主だったのだろうと思う。
三光長治さんは次のように書く。
ワーグナーは、1854年、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読んで、哲学者の説く音楽形而上学の虜になった。ショーペンハウアーは諸芸術の中で音楽に別格の地位を認め、他の芸術が「表象」の世界の模写にとどまるのに対して、音楽は「物自体」としての「意志」の流露であると説いた。この論文には「ドラマにとっても母胎だったという古の栄ある地位を取り戻すことがいままさに音楽の課題になっている」という行が出てくるが、音楽の復権を唱える発言の背景にもショーペンハウアーの影があると見てよいだろう。
~三光長治監修「ワーグナー著作集1 ドイツのオペラ」(第三文明社)P340
音楽だけは別格だという論は、ロジカルに説明できないものの(個人的に)是のように思う。
(言葉や形がない分、余計に真理そのものに近いのだろう)
この公演の歌手陣も音楽的に実に優れた歌唱を誇る。
ましてフルトヴェングラーの繰り出すワーグナーの悪魔的音響が、聴衆の心を、魂を抉るのは当然のように思えるのだ。
音楽が表明しているものはけっして現象ではなく、ひとえに内面的な本質であり、あらゆる現象の即自態das An-sichであり、意志そのものであるからである。このことからもわかるように音楽はあれこれの個々の、特定の喜びとか、あれこれの悲哀とか、苦痛とか、驚愕とか、歓喜とか、愉快さとか、心の安らぎとかを表現しているわけではけっしてない。音楽が表現しているのは喜びというもの、悲哀というもの、苦痛というもの、驚愕というもの、歓喜というもの、愉快というもの、心の安らぎというものそれ自体なのである。だから音楽はいくぶんかは抽象的に、以上のものの本質を表現し、よけいな添え物をつけずに、また動機をそのなかに入れずに表現しているのである。それでもわれわれは、このような純粋な真髄だけをそこから引き出して、音楽を完全に理解するのである。
~ショーペンハウアー著/西尾幹二訳「意志と表象としての世界Ⅱ」(中公クラシックス)P217-218
聴き手の器がいかに重要かが理解できる。
だからこそ音楽こそ目で聴き、耳で見る、いわば開かれた心眼によって享受することがベストなのだ。
フルトヴェングラーによるスカラ座の「指環」から第一夜「ワルキューレ」。
最後の録音であるEMI盤に比して、さすがにライヴのフルトヴェングラーの熱量は明らかに違う。

あの枯れた味わいも、あれはあれで捨て難いが、スカラ座の「指環」にあって「ワルキューレ」は、やはり幕を追う毎に集中力を増し、第3幕など、ヴォータンとブリュンヒルデ父子の対話の場面など、思わず感情的にならざるを得ないほど、(ある意味)静かでありながら真に迫る。
ブリュンヒルデ
何をお考えですか? どんな罰を受けるのです?
ヴォータン
お前を深い眠りに閉じ込める。
武具を着けていないお前を目覚めさせる男、
お前は目覚めたら、その男の妻になるのだ!
ブリュンヒルデ
私が深い眠りに落ちてしまったら、
どんな臆病な男の餌食にもなってしまいます。
どうかこれだけは聞き届けてください、
激しい不安からあなたに懇願します。
眠っている私を、人を追い払うような恐ろしいもので守ってください。そうすれば恐怖を知らない全く自由な男だけが、この岩山の上に私を見つけるでしょう!
~井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P103
そして、二人の意志と意志とのぶつかり合いの後に奏でられる雄渾な「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」は、いかにもフルトヴェングラー的な思念や情感に溢れるもので、ここはその時、その場にいてこそ感じ取れるであろう諦念と熱狂が錯綜する重要な感動的な箇所だ。
(最後は実に鎮静された音響で、名残惜しく終わる)

