
ルドルフ大公に献呈された11の作品はそのどれもが傑作であり、特別な作品だ。
ピアノ・コンチェルト第4番Op.58(1808年8月)
ピアノ・コンチェルト第5番Op.73(1811年11月)
ピアノ・ソナタ第26番”Op.81a”《告別》(1811年7月)
《フィデリオ》(第3稿)のピアノ伴奏版(1814年7/8月)
ヴァイオリン・ソナタ第10番Op.96(1816年7月)
ピアノ・トリオ第6番Op.97《大公》(1816年9月)
ピアノ・ソナタ第29番Op.106《ハンマークラヴィーア》(1819年9月)
ピアノ・ソナタ第32番Op.111(1823年5月)
《ミサ・ソレムニス》(1827年3/4月)
弦楽四重奏曲大フーガOp.133(1827年5月)
そのピアノ4手編曲Op.134(1827年5月)
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築1」(春秋社)P253
時に開放的で愉悦に溢れた傑作、時に哲学的、崇高な楽想に支配される巨大な逸品が並ぶ。
それだけで大公が特別な人であったことが理解できる。
1808年に入ってまったく新しい事態が起こる。ルドルフ大公(1788-1831)の登場である。ベートーヴェンの生涯にとって最も重要な存在となった彼は、前皇帝レオポルト2世の10男、末子で、まずは他の兄弟たちと同様に軍事経歴を歩んだが、テンカン持ちのために軍人は不向きとされ、教会職に転換した。
~同上書P252
「軍人が不向き」とされ、教会職に転換したことがすべてのように思う。
1808年頃の、ルドルフ大公との接近は、ベートーヴェンの人生にとって最大の節目だったようだ。
1807年には大公との関係は始まっていて、出来上がった最新作を献呈するつもりでいたが、急速にグライヒェンシュタインとの関係が深まり献呈相手を変えることを決意して、タイトル書きのスケッチを抹消し、グライヒェンシュタインへの献辞を付した新たなタイトルを補足した。そうこうするうちに出版が先延ばしになり、その間に大公とは特別な間柄に発展して、大公の音楽趣味もよく理解するようになって、華麗で晴れやかなト長調コンチェルトこそ大公に相応しいと思うようになったのではないか。
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P720
大崎さんの推論は冴えに冴える。彼は次のように想像し、論を続ける。
もうひとつ、前から気になっていたのが、この頃に繰り返されるベートーヴェンの転居、およびそれとエルデディ伯夫人との関係である。アイゼンシュタットから帰還後、1807年9月後半からしばらく、“パスクァラーティ・ハウス”4階の住居をそのままにしてか、エルデディ伯夫人に「一時的な客人」として滞在した可能性があり、1808年夏をハイリゲンシュタットおよびバーデンに過ごした後、秋からエルデディ伯夫人宅に今度は「下宿」するが、約半年後に使用人との間でいざこざがあってそこを出る。彼女のマンションはヴィーンの中心、第1区のクルーガー通り1074(現10)番地であり、ヴィーンの市街地図を見ると王宮からわずか数百メートルの位置にある。これはルドルフ大公の居所に通うにはきわめて便利であり、初め、エルデディ伯の好意による「客人」として、それが長期に及ぶようになると「賄い付きの下宿」と見なされるのではないか。そして彼は連日のようにルドルフ大公のもとへ通ったのではないだろうか。
~同上書P720
実に現実的なベートーヴェン像。
楽聖の前に、作曲家であり、ピアニストだったベートーヴェンもそもそもただの人なのである。
生きていくために作曲をしたし、生きていくためにピアノを教えることもした。
そして、この時期、ベートーヴェンは大公のためにコンチェルト第4番のカデンツァを6点書き、またモーツァルトのニ短調協奏曲.466のカデンツァも大公のために書いたというのだからその熱の入れようは並大抵でない。
ルドルフ・フォン・ハプスブルクとの接触の決定的触媒となったピアノ協奏曲第4番ト長調。
ドレスデンはルカ教会での録音。
シュターツカペレ・ドレスデンのまさにいぶし銀の渋い音響が堪らない。
アラウとデイヴィスが組んだこの録音の特長は、喜びに溢れるはずの音楽にどこか哀感が感じられるところだ。それは、アラウの独奏の重厚さ、老練、あるいはそれに伴奏を付すオーケストラの重心の低さ、空ろな響きが影響しているのかどうなのか。
これも作品58の一つの形であり、大公への献呈のクライマックスである「ミサ・ソレムニス」に通じる巨大な、深遠なベートーヴェンの具現なのだろうと思った。
(ルドルフ大公に献呈された11の作品をあらためて見よ!)

