クレーメル アルゲリッチ シューマン ヴァイオリン・ソナタ第2番ニ短調作品121ほか(1985.11録音)

若きロベルト・シューマンによるフロレスタンとオイゼビウスの思索。
明るく積極的な「動」を象徴するフロレスタンに対し、オイゼビウスは冷静で思索的な「静」を象徴する。この二面性はシューマンその人の2面性を表わすが、「動静」は本来切り離すことのできない、一つのものだ。

シューマンの(将来露呈する心の)問題は、それぞれを切り離し、対立させてしまったことにあるのではないかと思った。

源泉というものは時がたつにつれて、次第に互いに近寄ってくる。たとえばベートーヴェンはかならずしもモーツァルトが学んだものをみな勉強する必要はない。同様にモーツァルトはヘンデルが—ヘンデルはパレストリーナが—。そのわけは、こうした人たちは、先駆者を吸収してしまうからである。しかしどんな時代になっても、みんながあらためて汲みにくるだろうと思われる泉が一つある。—その泉は即ちヨハン・ゼバンスチャン・バッハである!    フロレスタン
シューマン著/吉田秀和訳「音楽と音楽家」(岩波文庫)PP32

メンデルスゾーンによるバッハ再発見は1820年代後半のことだが、おそらく同時期にシューマンもかの「マタイ受難曲」蘇演を聴いて、そう確信したのではないだろうか。
シューマンは実践、言行一致を重んじる人だった。

僕は、生活がその作品と調和しないような者を好まない。   フロレスタン
何かを知っているだけでは充分でない。学んだものがおのずから生活の中に応用されて、持続性と確実性を得なければ。   オイゼビウス

~同上書P33

波乱万丈、浮き沈みの激しい人生にあって、最晩年のシューマンの作品は憂鬱な音調が多いのも事実だ。しかし、そんな中、友人のフェルディナント・ダーヴィトに捧げられた最晩年の2つのヴァイオリン・ソナタは極めて美しい傑作だ(明朗さのなかの素朴、激しさと静けさが同居する明解なバランス)。

シューマン:
・ヴァイオリン・ソナタ第1番イ短調作品105(1851)
・ヴァイオリン・ソナタ第2番ニ短調作品121(1851)
ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)(1985.11録音)

高度な技巧と深遠な精神性を要求される音楽は、最近でこそコンサートのプログラムにしばしば載るようになったと思うが、これほどの佳曲にしてほとんど一般には知られることはなかった。個人的にはニ短調の方が好み。ヨアヒムがヴェーナ―に宛てた手紙に彼の手放しの賞賛が書かれている。

君は、クララが彼の音楽をいかに表情ゆたかに演奏するか知っているだろう。私は、彼女とロベルトの作品を演奏してたいへんにたのしいよろこばしい時をすごした。そして、この喜びを君に分けあたえたいとさえ思うのだ。おそらく、いつかはこれも可能だろう。私は、君にブライトコプフ・ウント・ヘルテルがもうすぐ出版するはずのニ短調の新しいソナタについて報告しないわけにはゆかない。私どもは、それを校正刷で演奏した。私は、これが感情の驚くべき統一性と主題の意義から現代の最もすぐれた作品の一つと考える。これは、気品のある情熱に溢れ、ほとんど荒々しく痛烈なほどの表現をもち、その終楽章は、音の輝かしい波をもつ海を想わせる。
(ヨーゼフ・ヨアヒムから指揮者アーノルト・ヴェーナー宛書簡1853年)
「作曲家別名曲解説ライブラリー23 シューマン」(音楽之友社)P108

なるほど、第2楽章など、いかにもブラームスに影響を与えたであろうスケルツォで、クレーメルとマイスキーの丁々発止のデュオが見事だ。
また、コラール「深き苦しみの淵からわれ汝を呼ぶ」を主題にした変奏曲たる第3楽章は、ヴァイオリンのピツィカートが主体になるが、これがまた可憐で、静かで、見事な平穏を喚起し、美しい。

この曲は、私が他には知らないような、驚くべき独創性、深さ、雄大さを備えている。これは本当に、まったく強力な音楽である。
(クララ・シューマン)
~同上書P111

終楽章のパッショネイトな熱気は、この後幾年もせず彼が投身自殺を図るとは思えないくらい精神的な充実を示す。

クレーメル&アルゲリッチのシューマン ヴァイオリン・ソナタ集(1985.11録音)を聴いて思ふ クレーメル&アルゲリッチのシューマン ヴァイオリン・ソナタ集(1985.11録音)を聴いて思ふ シューマンとブラームス シューマンとブラームス

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