ランチタイムコンサートVol.133 歌心が結ぶ近くも遠きふたりの音楽家 吉江美桜&原嶋唯

音楽の喜びに溢れた1時間。
ドイツ浪漫派のカチッとした様式を遵守した、極めて正統な表現。
今回のコンサートの副題は「歌心が結ぶ近くも遠きふたりの音楽家」だが、文字通り「歌心」に富む演奏だった。(実際には、「歌心」ではなく、「クララを中心にして結ばれた」だと思ったのだが)

吉江美桜はいずれの曲においても中間楽章に愛着を覚え、そこにテンションを置いているのだと思われた。
特にシューマンに関しては、晩年の、精神を病む少し前の、インスピレーションの奔流、そしてまたそこにある妻クララへの愛、ロベルトの創造力の発露の素晴らしさ、そして二人の間にある、切っても切れない因縁、情愛が込められた演奏に、彼らの明るい未来が音化されているように僕には感じられた。何と美しく、溌剌とした、生命力に富む音楽たちであることか。

僕はいまクララをきき終ったばかりなのに、もう次回の演奏を楽しみにしている人々を知っているので、何がこの人たちの興味をこんなに長く養っているのだろうかとふしぎに思う。
「クララ」(1833年)
シューマン著/吉田秀和訳「音楽と音楽家」(岩波文庫)P35

いまだ14歳のクララへの賞讃、というより実に客観的に興味をもって彼女をロベルトは評している。先の問いに対する彼なりの結論はこうだ。

これは大衆がなお幾らかの尊敬を払っているところの、精神の力である。
~同上書P36

その言葉は、そのままロベルト本人にも当てはまるのだろう。
精神の力こそロベルトの本領そのものであり、それがまたショパンやベルリオーズ、そしてブラームスの発見に大いなる役目を果たす。音楽家ロベルト・シューマンの目に狂いはなかった。

少女クララへの優しい関心から、魅力的な女性へと変わりゆくクララへのとめどなく溢れる愛情。ロベルトの心は少しずつ変化していく。周囲の反対を乗り越え、ついに1840年に二人は結婚するが、ロベルトのクララへの愛は時の経過と共に一層深まっていった。
ヴァイオリン・ソナタ第1番イ短調作品105は、1852年3月21日、ライプツィヒで、フェルデナント・ダーヴィトのヴァイオリン、クララ・シューマンのピアノによって初演される。

今回の演奏においては、個人的には第1楽章アレグロ・アパッショナートの「歌」、そこから生じる明朗な躍動に感心した。もちろん第2楽章アレグレットの詩情と(おそらく)クララへの尽きることのない愛、そしてまた第3楽章アレグロ・コン・ブリオにおける、ともに未来を開いていこうとする明るい希望と決意に満ちる音楽に、一貫した溌剌とした生命の力を僕は見た。そこにはヴァイオリニスト吉江のシューマンへの尊敬と大きな愛情が刻まれていた。

一方、ブラームスのソナタは一層練られた、奥行きの深い表現だったと僕には思われた。
(ブラームスが最も充実していた頃の傑作のひとつ)
吉江と原嶋は一体になってブラームスの作品を深く掘り下げた。何と素晴らしい音楽であることか、冒頭一聴、そんなことを思わせてくれたが、吉江本人がプラグラム・ノートに書くように、(クララとロベルトの末息子で、この曲の作曲中に亡くなったフェーリクスのために書かれた)第2楽章アダージョに込められた哀惜の念が音楽に見事に刻印されていて、僕はとても感激した(そして、前2楽章の主題が統一される終楽章アレグロ・モルト・モデラートでの(吉江による)真の太いしっかりした「歌」こそ、天国に旅立ったフェーリクスへの真の贈物であるように思う。最高の解決がそこにある)。

ちなみに、ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調作品78の私的初演は1879年夏にブラームスのピアノ、ヨアヒムのヴァイオリンで行われた。また、公開初演は同年11月8日、ボンにてマリー・ヘックマン=ヘルティのピアノ、ロベルト・ヘックマンのヴァイオリンによって行われた。

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