ベートーヴェンはエジプトの関する書物を多く読んでいたらしい。
彼らが宇宙の創造者について語る時、その偉大さにおいて如何なるものも優る崇高なものはない。創造者をより一層際立たせるために、彼らはこれに名前を与えなかった。彼ら曰く、名前というものは単純に区別をする必要があるためのもので、ただ一人なるものはどんな名前も必要としない。他の何かと間違うことがないからである。イシスの古い碑の下に、次の言葉があった。:「私はあるがままにある」。そしてサイスのピラミッドの上には次の奇妙な太古の銘があった。「私はすべてであり、現在あるところのものであり、かつてあったところのものであり、これからあるであろうところのものである。死すべき人間は一度も私のヴェールを取り除いたことはない」。
~藤田俊之著「ベートーヴェンが読んだ本」(幻冬舎)P171
太古の銘は決して奇妙でも何でもない。
本性(霊性)は永遠であることを示し、凡人は命、霊性を自覚できないということだ。
ならば、21世紀の僕たちは今こそそれぞれが解脱せんと意識することが大切だ。
そう、ベートーヴェンを聴け。
ベートーヴェンがついにたどり着いた領域に自身を招き入れよ。
すでに伝説としてささやかれているが、マルタ・アルゲリッチはたった4曲の協奏曲で尊キャリアを築いた。ラヴェル《協奏曲ト長調》、プロコフィエフ《協奏曲第3番》、ベートーヴェン《協奏曲第1番》、シューマン《協奏曲イ短調》がアルゲリッチのずっと弾きつづけてきた曲だというのは本当かもしれないが、ここでのリストは人が想像するよりもずっと長い。いつの日か、彼女が一度だけ弾いて、どこかにその録音が死蔵されているはずの曲が、この一覧表にくわわることを祈りたい。すなわち、ノルウェーで演奏したグリーグの協奏曲、ドイツでのベートーヴェン《第5番》などで、他にもあるはず。
「原書ディスコグラフィーへの解説(抜粋)」
~オリヴィエ・ベラミー著/藤本優子訳「マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法」(音楽之友社)P4
四半世紀ほど前、アルゲリッチが「皇帝」をステージにかけるというので僕は狂喜乱舞しチケットを押さえた。しかし、直前になってプログラムは変更され、確かモーツァルトの協奏曲第20番ニ短調K.466になり、愕然とした記憶がある。もちろんモーツァルトの演奏は大変すばらしかったのだが、僕は彼女の演奏する「皇帝」がどうしても聴きたかった。
ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15
・ピアノ協奏曲第2番変ロ長調作品19
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
ジュゼッペ・シノーポリ指揮フィルハーモニア管弦楽団(1985.5.28-29録音)
ロンドンは、ウォルサムストウ・タウン・ホールでの録音。
おそらく全集が計画されていたように思う。しかしながら、アルゲリッチの気紛れなのかどうなのか、10数年後にはシノーポリも逝去してしまい、完成は叶わなかった。
目の覚めるようなアルゲリッチのこの演奏を聴くと、未完のままに終ったことが残念でならない。シノーポリの堅牢な構成の中で、アルゲリッチは奔放に飛翔する。先のチャイコフスキーの録音同様、決して踏み外すことのない演奏で、その意味では丁々発止のぶつかりは抑制されているが、全精力をかけた再生という点で、これほどまでに美しいベートーヴェン演奏はない。
この後も繰り返し弾くことになる、人生をかけての第1番ハ長調がやはり完全無欠だ。第1楽章アレグロ・コン・ブリオにみる青年ベートーヴェンの未来への希望。
そして、第2楽章ラルゴの儚い夢をアルゲリッチはなんと清廉に歌うことか。
冒頭のピアノによる主題呈示の美しさは空前絶後。また、続く管弦楽による応答の格別なる度量! ここには自然を畏怖するベートーヴェンのすべてが表現されている。
終楽章ロンド(アレグロ)は、ゆったりとロンド主題を提示するアルゲリッチの余裕ある覚醒に感謝する。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン254回目の誕生日に。