カラヤン指揮ベルリン・フィル チャイコフスキー 弦楽セレナーデほか(1980.9録音)

人間はだれでも、ごくごく幼い頃から、動物的個我の幸福以外に、もう一つ、もっとすばらしい生命の幸福があって、それが動物的個我の肉欲の満足とかかわりないばかりか、むしろ反対に、動物的個我の幸福を否定すればするほど、ますます大きくなってゆくことを知っている。
生命のあらゆる矛盾を解決し、人間に最大の幸福を与えるこの感情を、すべての人が知っている。この感情が愛である。

トルストイ/原卓也訳「人生論」(新潮文庫)P120

かつてトルストイはチャイコフスキーのアンダンテ・カンタービレを聴き、涙したという。果たしてその逸話が真実なのかどうか、僕は知らない。しかし、少なくとも音楽そのものに感化され、涙したであろうトルストイの感性や思想は本物だったように思う。

「生命とは、全般的であると同時に連続的な分解と結合の二重のプロセスである。生命とは順を追って生ずる各種の変化の一定の結合である。生命とは活動中の有機体である。生命とは有機物質の特殊な活動である。生命とは外的関係に対する内的関係の適応である」
これらすべての定義に充ちている不正確さや、同じことの繰り返しにはふれぬとしても、これらすべての定義の本質は同じものであり、まさにここで定義されているものは、『生命』という言葉ですべての人が議論の余地なく一様に理解するものではなくて、生命や他の現象にともなう、なんらかのプロセスなのである。

~同上書P11-12

まるで音楽そのものを表す言葉のように見える。世界を因数分解すると「数(すう)」になるといわれるが、それはまた「音楽」をも表すのだと僕は思う。すべての生命活動は「数」であり、また「音楽」であるといっても過言ではなさそうだ。

1880年、短期間で創造された弦楽セレナーデは、モーツァルトを規範とし、古典に還れとばかりにチャイコフスキーが自信をもって世界に問うた傑作である。

・チャイコフスキー:弦楽セレナーデハ長調作品48
・ドヴォルザーク:弦楽セレナーデホ長調作品22
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1980.9録音)

ベルリン・フィルの完璧なアンサンブルと機能美の粋。分厚い弦楽合奏がこれほどまでの透明感を生み出すとは! カラヤンの類稀なる統率力の最後の輝きというのかどうなのか、チャイコフスキーの名旋律がうねる。
一方のドヴォルザークのセレナーデは、ブラームスをモチーフとし、壮絶な響きの第4楽章ラルゲットの哀感がクライマックスだろうか。終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェのコーダで第1楽章冒頭の旋律が再現されるシーンに、チャイコフスキーの場合と同様につい懐かしさを覚える。

1980年12月、カラヤンの機嫌をとるため、ベルリン市政府は、彼のベルリン・フィル就任25周年の祝典を計画する。現職の市長ディートリヒ・シュトベと並んで、指揮者も壇上でスピーチをする。感動のあまり、言葉につまる場面もあったが、彼はこう語った。

我々は一つの家族になりました。それは、指揮棒のもとで演奏する人間ではなく、犠牲的な精神で、疲れを知らない勤労意欲をもち、自然な人間的付き合いの中で、いかにできるだけ多くの高度な音楽を作りだせるか、共に考える一つの家族なのです。

彼の言葉は建前にすぎなかった。オーケストラはずっと前から、彼とそれほど親密な関係ではないことを、カラヤン本人も決して気づいていないわけではない。
ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P309

少なくとも録音当時、指揮者とオーケストラの間柄は表層的なものであったということだ。しかし、たとえその響きが精神を伴なわない、上っ面のものであったとしても、いかにもカラヤンらしい外面的効果に優れた名演奏(?)だと僕は思う。録音から40余年を経てもある意味その輝きは色褪せない。

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