
「女々しい」というのは表現として違うかもだが、ニーチェは人間的に器の小さい、余裕のない、危うい性格の人だったのだろうと思う。ワーグナーへの極端な、そして急激な憎悪への転換はそのことをはっきりと表しており、彼の数多の著作のどれもがとても偏った、感情過多の論に溢れている。
「ヴァーグナー問題」と題され、発表された、フルトヴェングラーの1941年の随想を読みながら僕は思った。
かつて「バイロイトにおけるリヒャルト・ヴァーグナー」の若き著者がヴァーグナーについて語ったところを想起してみるとき、20年後の現在ニーチェのとる姿勢は往々にして弁護士の姿勢を思わせる。すなわち自分の最終目標に役立つものをすべて寄せ集め、彼の立場から解釈し、それに合致しないものはことごとく却下するのである。昔も今も雄弁であることに変わりはないが、不都合なときには沈黙するという術を、ニーチェはいかに見事に習得したことであろう。それとも、彼が往時たとえば詩人ヴァーグナーについて語った事柄は、すべて偽りであり、虚構にすぎなかったのか。いずれにしろ『ヴァーグナー問題』におけるニーチェは、自己の弁明のため、およそ攻撃の可能と思われる個所を躍起になって捜し出そうとしている。愛ゆえの憎悪が、彼にこのような箇所の発見をも容易にし、彼の眼差しを鋭くしたのである。
~フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音と言葉」(白水社)P151
フルトヴェングラーの論調は、多少ニーチェを擁護する方向に傾きかける。
ニーチェの論を完全否定するわけでもなく、フルトヴェングラーはニーチェを逆手にとってリヒャルト・ワーグナーの音楽の素晴らしさを、激賞するのである。
問題はむしろ聴衆の側にあるのだと。
それゆえ私たち聴衆のほうが、ヴァーグナーに対する姿勢を検討すべきであろう。作品が私たちを満足させるか否かなどと問うべきではない。むしろ私たち自身を変革し、改めるべきであり、むしろ聴衆のほうが作品を満足させるようにと努力せねばならぬ。このような要求は芸術家、すなわち芸術作品の側から是認されるものであろうか。主観主義者ということは退廃者の一属性である。彼にとって興味ぶかいのは事物そのものではなく、事物にのぞむ自己の姿勢である。この仕方でのみ、彼は総じて事物を認めることができる。彼にとってなによりも重要なのは要求されること、つまり退屈しないことである。世界のあらゆる現実よりも、自分の好み、自分の気持のほうが重要なのだ。これに対して私はいまいちど、強調しておきたい。真の芸術作品とは鑑賞者にも要求をつきつけ、彼がその作品に匹敵する存在であることを求めるのである。
~同上書P173-174
これは芸術作品の場合に限らず、生き方、あり方そのものにも通じる真理だ。
僕はフルトヴェングラーの論に膝を打つ。
フルトヴェングラーの指揮するワーグナー作品がいずれも素晴らしいのは、それが、こういう思想の本にあるからだろうと思う。
ただし、このことは、何もワーグナーの問題に限ったことではない。
同じ論の中で、フルトヴェングラーはブラームスについても次のように書くのだ。
ヴァーグナーの偉大な同時代人および対蹠者であったブラームスにも、同じ時代精神の影響がうかがわれる。彼もヴァーグナーに劣らず芸術的な素質の持ち主であり、環境に対してきわめて敏感であった。しかし次の点では、正反対だといえよう。つまりヴァーグナーにあっては外部に向けられた反応が、ブラームスにあっては内部に向けられている。ブラームスは、深い自己認識と「冷静さ」によって自己を作品へ、ひたすら作品へと集中する。作品を凌駕する一切のものを意識的に拒否する。彼は、作品がその形象を通して彼自身の体験を証すであろうことを確信していた。それは作品にも影響を及ぼす。ヴァーグナーがつねに拡大の一途をたどったのに対し、ここではすべてがしだいに凝縮され、集中され、より簡潔なもの、より緊迫したものへと向かったのである。さらに深い基盤は、両者に共通するものであったといえよう。
~同上書P167
性質や方法が異なるだけで、ワーグナーとブラームスの根っこは同じものだった。
(絶対真理から生み出される陰陽二気の妙)
ニーチェのワーグナーに対する弁は、極めて個人的な、私的な感傷から発するものであり、決して公のものではないのだが、彼の人を煙に巻くような詭弁が彼の論を、存在を支えていた。しかしながらそれは、ここでフルトヴェングラーによって(ある意味)葬られたのだといえまいか。
フルトヴェングラーは指揮棒でもってワーグナーを、そしてブラームスを解体し、統合した。
恐らく偶然だろうが、ワーナーのコンプリート・ボックスの1枚には、この両者の音楽が収録されており(録音が近接しておるから)、いずれもフルトヴェングラーの猛烈な、壮絶な指揮を、セッション録音であるにもかかわらず聴くことができる。
いずれもルツェルンはクンストハウスでの録音。
プロデューサーは、ウォルター・レッグ。
清澄で静謐な「ローエングリン」前奏曲はフルトヴェングラーの真骨頂。
フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管のワーグナー「ローエングリン」抜粋(1936Live)を聴いて思ふ
フルトヴェングラー59回目の命日にワーグナーを聴いて思ふ
フルトヴェングラー・イン・メモリアム そして何より、ブラームスの協奏曲における管弦楽パートのあまりの巨大さ、そして熱量!!
メニューインの独奏(カデンツァはフリッツ・クライスラー作)は、残念ながら少々線が細い。この録音は、あくまでフルトヴェングラーの壮大な、凝縮力、集中力高い、緊迫感ある指揮を聴くべきものだ。
