バティアシュヴィリ アリス=紗良・オット クララ・シューマン ヴァイオリンとピアノのための3つのロマンス作品22(2012.10録音)ほか

クララ・シューマンが没して130年。
思ったほど遠い過去の人ではないのだと知る。

ぼくはいまクララをきき終ったばかりなのに、もう次回の演奏を楽しみにしている人々を知っているので、何がこの人たちの興味をこんなに長く養っているのだろうかとふしぎに思う。っそれは、指が10度までも届くというので、皆が内心の驚嘆をかくしながら、不満そうに頭をふる彼女の神童ぶりからくるのだろうか—それとも彼女が、楽々と、花環のように公衆にばらまく至難中の至難の芸のためだろうか。あるいはまた、彼女がこの土地の生れだというので、町の者が何となく肩身が広いような気がするからだろうか—それともごく最近の一番面白い曲をさっそく演奏するからだろうか。あるいはまた大衆が、芸術というものは、二三人の気負った人たちが、時の轍がその遺骸の上を走り去った過ぎし世紀に帰れといったところで、決してそうした気まぐれによって支配されるべきものでないという事情を、見抜いているためだろうか。—どうもわからない。しかし僕としては単純にこう考えている。これは大衆がなお幾らかの尊敬を払っているところの、精神の力である。手短にいえば、大衆がほしいと思わないわけではないが、実際に持っていないくせに、それに関するおしゃべりはさかんにするというような精神の力であると。—  フロレスタン
「クララ」(1833年)
シューマン著/吉田秀和訳「音楽と音楽家」(岩波文庫)P35-36

おそらくこの頃からシューマンは潜在意識の中でクララへの恋を得ていたのだろうと思う。
ちなみに、ロベルト・シューマンがこの記事を書いた年、ヨハネス・ブラームスが誕生している。
不思議な奇縁だ。

浪漫満ちるクララの音楽は、ほの暗いロベルトのそれと比較すると実に明朗快活。
意識は常に外に向かう。
一方、ほとんど弟子のようなヨハネスの音楽はきっぱり内側を向く。
相対の世界にあって、正反対の存在というのは必然なのである。

リサ・バティアシュヴィリの演奏するブラームスを、そしてクララ・シューマンを久しぶりに聴いた。

・ブラームス:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77(カデンツァ:フェルッチョ・ブゾーニ)(2012.6録音)
・クララ・シューマン:ヴァイオリンとピアノのための3つのロマンス作品22(2012.10録音)
リサ・バティアシュヴィリ(ヴァイオリン)
アリス=紗良・オット(ピアノ)
クリスティアン・ティーレマン指揮シュターツカペレ・ドレスデン

比較的速めのテンポをとるティーレマンの伴奏に合わせ、バティアシュヴィリは淡々と、しかし思いを込めて歌う。極めつけは、ブゾーニのカデンツァを採用している点だ。
音楽的な乖離はもちろんあるが、ヴァイオリニストの挑戦という意味で実に果敢で素晴らしいもの。

以前、僕は少々の違和感を覚えたことを書いたが、あれから13年を経過して耳にした今、むしろティンパニの怒号が逆に心地良く感じている自分がいることに気づく。なるほどこれは、ヨハネスとクララの対話だったのだ。優しくささやきかけるクララに対して、ヨハネスは(壮年になるにつれ)いつもどこか不満げに、あるときは冷たく接していたと聞く。

心を開くことができないヨハネスの弱みをブゾーニは音楽で表現して癒そうとしたのだろうか。それにしてもカデンツァ後のコーダにおけるヴァイオリン独奏のあまりの美しさ。
完璧な表現だ。
(第2楽章アダージョの哀愁はSKDのいぶし銀の響きに因るところが大きい)

バティアシュヴィリのブラームスとクララ・シューマン バティアシュヴィリのブラームスとクララ・シューマン

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