
セルジュ・チェリビダッケは厳格な人だった。
リハーサルのときには、冒頭に必ず禅を軸にした哲学的な話があったそうだ。
要は、心を一つにせよということをオーケストラ・メンバーに伝えたかったのだろうが、彼が烈火の如く怒ったのは、メンバーが指揮者の意図を理解しなかったとき、あるいは流れを無視した、表層的な(個人的な)音を出したときだという。時の経過とともに、共に過ごす時間は必然的に長くなり、そうなると信頼関係の下、オーケストラは彼の望む音楽を演奏できるようになり、そこから名演が生まれることになった。
ミュンヘン・フィルのホルン奏者として、チェリビダッケの下で演奏したヴォルフガング・ガークは語る。
多くの指揮者はブルックナーをオルガン奏者だったという外観的なところから解釈します。でもチェリビダッケは音楽に内在する神秘的な部分、内的なところからブルックナーに迫り、そこにある価値を捉えてオケや聴衆に伝えていこうとしていました。それはブルックナーに限らず、どの作曲家についてもそうでした。
~「レコード芸術」ONLINE『チェリビダッケと共に歩んだ伝説のホルン奏者が語る、巨匠の真実』
神秘というととてもわかりにくいが、音楽の一回性を重視し、常に消えてなくなる音楽の美しさを、儚さをチェリビダッケはわかっていたのだと思う。ブルックナーに限らず、だからこそ彼の演奏はどれもが素晴らしく、どれもが貴重なのである。
本質をとらえること。
自己の内面を見つめるが如く、音楽の内側を覗きこもうとする姿勢と、自らが感じ取ったものを音にする、それこそが指揮者の役割だった。
ところで、それはともかくとして、言うてみよ。いったい音が耳のほうへやってくるのか、耳が音のほうへ行くのか、どちらだ。たとい音響も静寂もともに超えたような境地を得ている者でも、問題はここの処をどう説明するかである。もそ、声を耳で聴くようではここの処は分かるまい。眼で声を聞いてこそ、はじめて声と一体といえるであろう。
(十六 鐘声七条)
~西村恵信訳注「無門関」(岩波文庫)P80
これこそ禅の真髄だと思う。
・ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(ハース版)
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(1988.10.16Live)
ミュンヘンはガスタイクでのライヴ録音。
巨大なブルックナー。これほど崇高な「ロマンティック」交響曲は他にはない。
最晩年のチェリビダッケの方法がここでもオーケストラに十分に浸透しているが、80分近くを要するテンポでも違和感がない。チェリビダッケのブルックナーにして最高峰ではなかろうか。
第1楽章から終楽章まで一切の弛緩なく聴かせる様子に僕は震撼する。
誰もが釘付けになるのはやはり終楽章だろう。
特に、コーダの(他にはない)弦のアクセントが壮大な音宇宙を支える大地の鼓動のように聴こえ、僕は言葉を失った。
この終着点があっての「ロマンティック」であり、ここを聴くために再び初めから聴くこと4回。魂には、霊性には始めもなければ終わりもない。生死の問題と同じく。
