
僕の認識する限りでは、古くはモダン・ジャズ・カルテットによるもの、あるいは「スイッチト・オン・バッハ」というアルバムもあった。バッハ受容の多様性とでもいうのか、あらゆるジャンルにおいて様々にインスピレーションを与えるバッハ音楽の魔力。
The Modern Jazz Quartet “BLUES ON BACH”(1973.12.28録音)を聴いて思ふ 敬愛するブラッド・メルドーにもバッハ・アルバムがある。
平均律クラヴィーア曲集からインスパイアされ、メルドー自身の作曲による佳曲を組み合わせて収録した「アフター・バッハ」と題した、2017年録音のアルバム。
早10年近くが経過するようだ。
コロナ禍前、メルドーの来日公演を聴いた。
録音で聴く以上に彼の演奏の即興性、というか臨機応変の感応ぶりに僕は舌を巻いた。
(感応は官能と表現しても良いだろう、ピアノの音色にエロスが迸っていた)
聖なるバッハの、内なる俗性を垣間見ることができる、類稀なバッハの音楽に、バッハこそはジャズであったこと、あるいはそのポリフォニーの中にこそ、音楽の官能の本質があることを僕は悟った。すべてはブラッド・メルドーのおかげ。感謝だ。
劈頭を飾る「ビフォー・バッハ:ベネディクション」。
バッハの記憶を残しながら現代のイディオムを駆使しての音楽は、「ビフォー」とはいえ、バッハの進化系と言えまいか。ここには革新的なメルドーの見事な挑戦が刻印される。
続く平均律クラヴィーア曲集第1巻から前奏曲第3番嬰ハ長調の冷徹な愉悦と、そこから派生した「アフター・バッハ:ロンド」の長尺で複雑な動の、いわばヴァリエーションに僕は夢を見る。
(これは素敵なインスピレーションの賜物だ)
そして、平均律クラヴィーア曲集第2巻から前奏曲第1番ハ長調は、深い思念に満たされた名演奏。できればフーガも録音して欲しかったが、今回はここまで。メルドーのバッハへの愛が如実に伝わる。対となる「アフター・バッハ:パストラーレ」は文字通り田園風景の心象だろう。バッハの音楽にある大宇宙と小宇宙の間に属するわが地球(テラ)の音の描写の美しさ(左手の低音と右手の高音が交錯する様子が天人合一の奇蹟を表すよう)。参った。
・BRAD MEHLDAU:After Bach (2018)
Personnel
Brad Mehldau (piano) (2017.4.18-20録音)
平均律クラヴィーア曲集第1巻から前奏曲第10番ホ短調の可憐さ、優しさ。
また、メルドーの応えたる「アフター・バッハ:フラックス」は、フーガの様相を示しつつ遊戯するバッハの具現。
ここまで来て、ついにメルドーは前奏曲とフーガを選択する。
平均律クラヴィーア曲集第1巻から前奏曲とフーガ第12番ヘ短調の官能。やはり前奏曲とフーガは一気に奏するべきだと僕は思った(バッハの意図は、通すことにあっただろうゆえ)。
そこから触発されたのが「アフター・バッハ:夢」ならば、この音楽こそ本アルバムの頂点であり、またメルドーの出した解答だ。この、囁きかける、語りかける孤独なバッハの、否、メルドーの心は夢見心地でありながら実に現実的。まるで目の前で彼が演奏し、音楽を宙から繰り出しているかのように新しい。
さらに、平均律クラヴィーア曲集第2巻からフーガ第16番ト短調の、確固とした、芯の太い響きに、それでいて軽快な演奏に、これぞバッハのフーガの理想だと僕は感じた。対となる「アフター・バッハ:オスティナート」の深遠なる、哲学的極小世界の表出に僕は言葉を失う。そこにはバッハの積分的表現があり、メルドーの音楽への愛が、バッハへの慈悲が美しく刻まれており、聴いていて胸が熱くなる。
掉尾を示す「プレイヤー・フォー・ヒーリング」は、バッハを通じての人類への癒しだ。
バッハは祈りであり、平和の象徴だといえまいか。
(螺旋のように昇り詰めていく官能と、螺旋のように降っていく祈りは、まるで龍の如くであり、それは悟りの象徴だ)
ヨハン・セバスティアン・バッハの276回目の忌日に。
