
絶対聴取への問いを通して、作家(トーマス・マン)は暗黙のうちに音楽的絶対への問いを呈示する。彼は神話を調べ直し、ファウスト的探究をもとに、ある絶対の探求を生み出す。この絶対においては、音楽を聴き、書くことによって、世界の法則に関するある種の最高の意識へ、全面的に充実した知覚と理解をしつつ近づくことができるのだ。レーヴァーキューンはこの目的に達するために、完全さ自体が彼に求めるきわめて厳密な書法に焦点を置く。この完全さは、彼によれば「音楽のすべての次元の絶対的な統合と、それ自体完璧な組織ゆえのそれら次元のたがいの無関心」から生じるものである。この偉大な計画は、「セリー」という言葉が小説で1度も使われていないにもかかわらず、セリーの計画と見まごうほどよく似ている。おそらく彼は、(セリーの)神話の永遠性を損なうおそれがあるだろう。それでも、セリーの亡霊はそこにあり、2人の弟子であるベルクとヴェーベルンをしたがえたシェーンベルクの影はくっきりと姿を見せている。「証拠として」とブーレーズはつけ加える。「セリーのテクニックが力ずくでとらえられている上に、作曲家がみずから作り出したシステムと向き合ったときに自由に使える状態も等しく分析されている第22章を再読する必要はない」。
~ヴェロニク・ピュシャラ著/神月朋子訳「ブーレーズ―ありのままの声で」(慶応義塾大学出版会)P42
ブーレーズの解釈は、さすがといえるものだが、人間が作り給うた芸術に「絶対」を探すことは不可能のように僕は思う。どこまで行っても陰陽二元の顕現であり、そこには「理」は映し出せないからだ。強いて言うなら、ジョン・ケージが「4分33秒」において無意識にそれを表出しようとしたのかもしれないが、残念ながらそこには環境から発せられる「音」が入っており、「理」とはいえなかったし、もちろん今もいえない。
ならば、シェーンベルクは「絶対的統合」を目指したのではなかろう。
もし、目指したとするならそれはアントン・ヴェーベルンではなかったか。極限まで削ぎ落すことに成功したヴェーベルンは、過去の巨匠たちの器を借りて、古今の「絶対的統合」を目指そうとしたのかも。
そういう意味では、バッハ/ヴェーベルンの管弦楽のための6声のフーガは、「合作」であり、「絶対的」とはいえないまでも「相対的統合」ではあったように僕には思われる。
旧録音は、ブーレーズの上記の真意を見事に表わす、天才同士のシナジーの結果だろう。
静謐で美しい。
僕がさらに好むのは、ヴェーベルンの指揮によるシューベルトのドイツ舞曲。
喜びが静かに舞う。
