
何を待っているんだね? あんたの嘲笑に感心しろというのかい? あんたがぼくの知っていることを言うすべを心得ている、ということをぼくは疑ったことがない。それを言い出すあんたのやりかたはまったく計画的だ。あんたは、ぼくがぼくの計画と仕事のために悪魔以外のだれをも必要としない、だれにも助けを借りられない、ということをなんとかしてぼくに教えようとする。しかもあんたは自分自身の欲求と瞬間とのあいだの、欲求と『正当性』とのあいだの、おのずからなる調和の論理的な可能性を排除することはできない。—強制もされず考えもせずになされる創作のもととなるような自然の調和の可能性をね。
~トーマス・マン作/関泰祐・関楠生訳「ファウスト博士(中)」(岩波文庫)P129-130
どれだけ知恵を絞ろうと、どんなに恣意を巧みに使おうと、大自然の調和のあり方には敵わない。芸術が、音楽がその絶対的機能の存在を忘れてしまったのはどこからだったのか?
今日、芸術とはなんだろう? えんどうを靴に入れた苦行巡礼さ。それは今では、踊りに向いていること一足の赤い靴以上だ。そして悪魔に悲しまされているのは君だけではない。君の同職者たちをよく見たまえ、—君が彼らをよく見ていないし、彼らに目を配らず、自分はひとりきりだという幻想を抱いて、一切を、時代のあらゆる呪いを我が身に引き受けようとしているのをぼくはよく知っている。しかしまあ気休めに彼らを、新音楽の共同の始祖たちをよく見たまえ、ぼくの言っているのは状況の結論を出す誠実なまじめな連中のことだがね。ぼくは民俗的な新古典主義的な逃避者のことを論ずるのではない。彼らの近代性は、彼らが音楽的な爆発をみずからに禁じ、多かれ少なかれ威厳を見せて前個人主義的な時代の様式の衣装をつけているところにあるのだ。彼らはみずからにも他の人たちにも、退屈なものが興味深くなったのは興味深いものが退屈になり始めたからだと説いている・・・。
~同上書P126-127
個人的には、20世紀の、十二音音楽に、マンの誤解があったように思う。
例えば、アントン・ヴェーベルンの編曲したバッハの「6声のためのリチェルカーレ」を聴いてみるがよい。何という調和、何という自然。
ヴェーベルンのミニマル音楽が、前衛的な音楽が、いかにバッハのもつ宇宙の調和力と同期していたのかは明らかだ。
・J.S.バッハ/ヴェーベルン編曲:6声のためのフーガ(リチェルカーレ)(1934-35)
ピエール・ブーレーズ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1993.3録音)
室内楽的な、色彩豊かでふくよかな管弦楽の響きが、アントン・ヴェーベルンの内なる佛性を、神性を顕すようだ。短絡的に判断すべきではないが、時間が世界の状況を変えたのだと思う。どんな外面であろうと、造りであろうと、音楽の本質的な慈愛は変わらない。
(何十年も、何百年も残る音楽芸術にはそれが間違いなくある)
ブーレーズの指揮も決して無機的に陥らず、ベルリン・フィルの機能性を巧みにコントロールし、美しいバッハ/ヴェーベルンの世界を現出させる。
「フーガ」という形式の素晴らしさにあらためて瞠目する。
さらにここでとり上げたウェーベルンのになると、単なる編曲というより創作に近くなっている。管弦楽法の原理を音色旋律においているウェーベルンのスコアからは、原曲からちょっと想像もつかぬような意外な響きがもたらされ、聴くものに新鮮な驚きを与えてその心をとらえてしまう。想像力の豊かさが、ウェーベルンを単なる編曲者に止めず、創造者にまで達せしめる。したがって、(フリードリヒ)大王が主題を作り、この難しい主題に基づいて大バッハが6声の見事なフーガを作曲、さらにウェーベルンが一管編成のオーケストラであざやかに色づけした、これは一種の合作といえはしまいか。
(諸井誠)
~「作曲家別名曲解説ライブラリー16 新ウィーン楽派」(音楽之友社)P73

ここからバッハの世界に今一度還るとしよう。
カール・リヒターが録音した、プロイセン王に捧げられた「音楽の捧げもの」の原典。
「音楽の捧げもの」に添えられた献呈文には次のようにある。
ここに謹んでひとつの音楽の捧げものを陛下の御前に捧げ奉ります。この最も高貴な部分は陛下の高きみ手より出たものでございます。先般不肖ポツダムにて拝謁の折、王陛下が特別の恩恵をたれ給いて、かしこくもお手づからクラヴィーアにてフーガ主題を不肖に示され、かつ同時に御前にてただちに処理するよう御下命あらせられましたかのときのことを、今なお畏懼にみちた喜びをもって想起いたします。陛下の命に従い奉ることは不肖の心からなる責務でございました。されど必要な準備に欠けておりましたために、かくもすぐれた主題にふさわしき処理の成功はおぼつかなきことを即座にさとりました。したがいましてこの真に王者らしき主題を完全に労作して世にあらわすべく心に決め、それを不肖の責務といたしたのでございます。今やこの意図は微力の及ぶ限り果たされました。
(東川清一)
最晩年のバッハの傑作は、シンプルでありながら実に奥深い。
トーマス・マンは、「ファウスト博士」を上梓する中で、過去を振り返り、実に42年もの長きにわたってある主題が脳内を明滅していたことを知る。
トーマス・マンが身を置いた「世紀末」の問題化した状況の中での精神的、主題的な格闘のすじ道を要約すると、まずマンは他の「世紀末」芸術家一般と等しく、市民社会の没落の予感から生まれた唯美的なペシミズムに身を委ね、そこからペシミズムの果てに現われた死への親近感を克服して、性へ向っていく。その生へ向っていく一つの媒体として、ニーチェが存在する—ということにあろうか。
~辻邦生「トーマス・マン」(岩波書店)P129
辻邦生の見解は鋭い。
しかし、実はマンは、ニーチェのニヒリズムの、その先まで見通していたのではないかとすら僕には思える。ニヒリズムは、真理の根底を虚無とし、絶対とされてきたすべての価値を否定しようとする思想であり、実際には、さらに先の、言語化できない個所にこそマンが到達せんとした境地があると思うからだ。

ところで、タチアナ・ニコラーエワのピアノの音は人間的だ。
無色透明な、しかしながら打楽器的特性として魂を鼓舞するピアノの音に導かれてのバッハの真意は、王、というより大自然への畏懼があり、最晩年の彼女の演奏には、シンプルながら奥深いそれが聴きとれるのである。
「フーガの技法」BWV1080は素晴らしい。
しかしながら、冒頭に収録された2つのリチェルカーレの、墨色で染められた王の主題から醸される崇高で知的な音楽に、一台のピアノが静かに挑む様子に、心が動く。
18世紀と20世紀が、2世紀の時を経てつながる永遠。
バッハの音楽は不朽だ。


