
田園詩
半獣神
あのナンフたち、永遠に続けていたい。
なんと明るい
軽やかなあの肉色、今も空中を 舞い踊る、
生い茂る 眠りに沈む 大気の なかを。
愛したのは、夢か あれは?
~渡辺守章訳「マラルメ詩集」(岩波文庫)P82-83
ステファヌ・マラルメの「半獣神の午後」。
冒頭の句だけで、彼の思考が現実よりも幻を見ているかのように思えるが、果たしてそれは逆であった。形而上こそ真であることをマラルメは知っていたのだと思う。
「形而上者謂之道、形而下者謂之器(形而上なるものをこれ道といい、形而下なるものをこれ器という)」
(易経)
マラルメの、上記の詩に感化され、クロード・ドビュッシーは音楽を描いた。
彼(ニジンスキー)の考えが要約されていた『薔薇の精』に、1913年以降彼はあまりいい顔をしなくなった。『春の祭典』の振付がスキャンダルを招き、彼は、一方では喝采をはくしながら、他方からは軽蔑の口笛を吹かれる状況をうまく堪え抜くことができなかったからだ。ぼくたちには重力が宿っている。そしてその重力を克服するため、彼は絶えず何か計略を探し求めていたのだった。
~ジャン・コクトー/秋山和夫訳「ぼく自身あるいは困難な存在」(筑摩書房)P51
世界はすべて陰陽で表わされる。
ニジンスキーは、それに抗おうとして精神を病んでしまったのだろう。
天才とはそういうものだ。
彼は、『薔薇の精』の終りを飾る跳躍が、客席から見ると半分隠れてしまうのに気付いていた。そこで二重跳躍をしたり、舞台裏の空中に身をからませたり、垂直にそこへ跳び下りたりすることなどを発明した。舞台裏では皆が彼をボクサーのように迎えた。熱いタオル、励ましの平手打ち、そして召使いのディミトリが彼の顔に水を吹きかけるのだった。
『牧神』の初日の前はラリュの店でよく夜食をしたが、首を曲げたままで動作する彼にぼくたちは驚いた。しかもそれが何日も続いた。ディアギレフとバクストが心配して彼に問いかけていたが、何の答えも引き出せなかった。やがてぼくたちは、彼が扮装につける角の重さに馴れる訓練をしていたことを知った。彼を無愛想にし、不機嫌にしていた際限のないこうした練習についてなら、その気になれば何千となく例を挙げられるだろう。
~同上書P51
ニジンスキーが孤高の天才だといわれる所以だ。
その行動の意味は、他人には簡単にわかるまい。
ぼくは彼があらゆる役割を創造するのを見た。彼が演じたかずかずの死は悲痛きわまるものだった。操り人形がぼくたちに涙を催させるほど人間化した『ペトルーシュカ』のそれ。舟底の魚のように彼がからだで床板を打ち鳴らし続けた『シェエラザード』のそれ。
~同上書P52
世界を震撼させたニジンスキーの舞踊がいかにすごかったか。
ジャン・コクトーのこの報告だけで十分に伝わる。
20世紀初頭のパリ。
退廃と絢爛豪華の間を往来する天才たちの心象を垣間見ることができる舞踊と音楽と。
「薔薇の精」は、ウェーバーの「舞踏への勧誘」(ベルリオーズ編曲版)にミハイル・フォーキンが振付し、カルサヴィーナとニジンスキーによって初演された。パリ初演は1911年6月7日。
そして、「牧神」は、ニジンスキーの振付により1912年5月29日に初演された。
ニジンスキーは、ディアギレフに劣らず慌てていた。明らかにニジンスキーは、自分の処女作がこんな騒ぎを引き起こすとは思っていなかった。気の毒だが、騒ぎはこれで終わりではない。次の日、プレスの半分はディアギレフを不道徳ということで非難し、ニジンスキーの最後の動きに抗議した。プレスのあとの半分はニジンスキーの振付と演技を温かく擁護した。とはいえ、この論議はバレエのためにはいい宣伝になった。ディアギレフはこの事態が不満でたまらず、なんとか自分の弁護をと思っていた。そして、その弁護をロダンが受け持った。ロダンは大新聞の「ル・マタン」に長い記事を書いてニジンスキーを擁護したので、あとの公演では騒ぎは起こらず、彼の最後のポーズもいくらかおだやかになった。
~セルゲイ・グリゴリエフ著/薄井憲二監訳/森瑠依子ほか訳「ディアギレフ・バレエ年代記1909-1929」(平凡社)P75-76
かれこれ20年前、目黒庭園美術館で観たニジンスキーの「薔薇の精」の衝撃は今でも忘れない。(時代の移り変わりもあって、もちろんそれが不道徳だとは思わなかったが)
いつの時代も革新的なものは批判の矢面に晒されるものだ。
・ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲L.86(1894)
シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団(1989.5.25&26録音)
個人的に一番だと思うデュトワの録音。
40年近く前のものだが、夢か現か、マラルメの見ていたものを見事に描写する。

