ソコロフ J.S.バッハ パルティータ第2番ハ短調BWV826(1975Live)ほか

「ゴルトベルク変奏曲」を初めて聴いて、即座に理解することは不可能でしょう。この作品を繰り返し聴き、よく知り、バッハの晩年の音楽を理解することが不可欠です。この作品の魅力は、特定の旋律部分にあるのではなく、楽想の自由で巧みな展開にあるのです。一たびこの境地に達することができると、一見人工的な音楽に温かみを与える、優しく慰めに満ちた明るさを味わうことができるのです。
(アルベルト・シュヴァイツァー)

本来、世界は光に満たされていることをバッハは知っていた。
相対世界にあって、闇は必要だからそこにあるのだ。
僕たちの本性も光そのものであるゆえ、僕たちが本性に立ち返ることができれば、世界を光で満たすことはまったく可能になる。
バッハはそのことを音楽で伝えようとしたのかも知れない。

ソコロフのバッハ「ゴルトベルク変奏曲」(1982.2.27Live)ほかを聴いて思ふ ソコロフのバッハ「ゴルトベルク変奏曲」(1982.2.27Live)ほかを聴いて思ふ

グリゴリー・ソコロフの弾く「ゴルトベルク変奏曲」を聴いた。
10年前の印象と変わらず、ライヴならではの生命力迸る演奏に、再び僕はひれ伏してしまった。CD2枚に分けられたその演奏は、いみじくも第25変奏から2枚目が始まる。静かな、深沈たる音楽もソコロフの手になると、実に明解かつ軽快な音調を醸すのだが、天使が舞い降りる第26変奏以降の、いわば「地上天国」の顕現が兎にも角にも見事。たった一度限りのライヴであったがゆえの現実味。何と素晴らしいのだろう。

そして、あらためて耳にした、パルティータ第2番とイギリス組曲第2番に、その推進力と、それこそ「優しく慰めに満ちた明るさ」の奔流に感激した。

ヨハン・セバスティアン・バッハ:
・ゴルトベルク変奏曲BWV988(1982.2.27Live)
・パルティータ第2番ハ短調BWV826(1975Live)
・イギリス組曲第2番イ短調BWV807(1989Live)
グリゴリー・ソコロフ(ピアノ)

1975年のパルティータ第2番ハ短調。
さすがに技量のあるソコロフをもってしても少々の瑕はあるが、許容範囲の中にあり、それ以上に、バッハの音楽の内奥にある真実を見極めた表現に言葉を失う。
その第一は、生命力。
生きているような、まるでたった今ここで生み出されているかのような実存感は、セッション録音ではないことが大きな理由だろうが、バッハの音楽にある鼓動が、パルスが、(半世紀前の)決して優秀とはいえない、多少残響が付加されたようなまさに人工的な音響をもつ録音でありながら、ひしひしと伝わってくるのだからすごい。

そして、それから15年近くを経て演奏されたイギリス組曲第2番イ短調の、一層磨きのかかった躍動は、バッハの音楽に内在する「静けさ」を体現したもので、これらの小宇宙の中にすべてが含まれているのではないかとさえ思わせる巨大さで、聴く者にある種の緊張を強いる。

トーマス・マンは、人間の根源にある戦争や血や破壊をすら要求する根源の衝動としてのデモーニッシュな力の存在をはっきり意識し、その慰撫によって、人間の高貴さが保たれているのを感じるゆえに、「文明」化された社会の、楽天的な、合理的な性格を、人間の生命を無視し、枯渇させるものと見なすのである。外面的には技術化され、便利的手段と衛生思想によって完全に作りあげられ、内面的には進歩と民主制と理性と美徳によって築かれる世界も、もし、その根底に、非合理的な根本衝動を切りすて、それを認めることをしないのであれば、それは人間の生命を終らせるものであり、物質的レヴェルでただ無害に生きられるかもしれないが、人間の魂の問題にはまったく関与しないものとなる。幸福も、自由も、魂の高貴さも、忍苦ももはや人間にとって意味を持たなくなり、人間が人間である証しである内面の苦悩も喜びも、したがって人間の死も誕生も、その本来の意味を失うほかないのである。
トーマス・マンにとって芸術とは、こうした人間の所有であり、人間の魂から生まれ、魂に戻ってゆく仕事であった。

辻邦生「トーマス・マン」(岩波書店)P204-205

あくまでこの3次元の世界においての理想の有様を説いているようだが、実際のところは、泥沼のような世界にあって、いかに自らを明らかにするか、解脱できるか、その覚悟を問わんとしているのだろうと僕には思える。

バッハの意識は超越していた。
それを、ソコロフは現実的に料理する。解脱せずして、この現実世界で、彼は自身と闘っているのだろう。だからこそ美しいのである。

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