
9年前に聴いたキャスリーン・バトルのリサイタルは、年齢を感じさせない素晴らしいものだった(当時69歳!)。
キャスリーン・バトル プレミアム・ナイト Something to Sing About
彼女のアルバムは、これまで何枚も聴いてきたが、中でもモーツァルトのアリア集は、彼女の可憐な歌声が聴けるすばらしいもので、今も時折取り出して聴いて、そのたびに感動している。特に若き日のバトルの美声は明朗快活、空前絶後であり、40年も昔の録音なのに、とてもリアルで、新しい(こういうソプラノはもはや出て来ないのではないかと思うくらい)。
バトルのモーツァルト「コンサート・アリア集」を聴いて思ふ
1988年のメトロポリタン・オペラの来日公演での「フィガロの結婚」について、会場にいた吉田秀和さんは絶賛する。舞台にはバトルの姿もあった。
音楽も上々。レヴァインの湧きたつようなテンポ。天才的間のとり方。独唱よし重唱よし。伯爵(ハンプソン)は声も姿もりっぱ。ケルビーノ(クイットマイヤー)は移り気な蝶というより青春のひたむきさの象徴。フィガロ(チーク)も悪くない。評判のバトル(スザンナ役)は声量を補うため手紙の二重唱の後半を舞台の前面まで出て来て歌うなどいろいろ苦心のあとがみられた。しかし、お目当ての終幕のアリアに至って、「量より質」の稀代の美声を駆使して、純粋音楽の結晶みたいに歌い上げ、全曲の音楽的頂点にしていた。
(1988年6月4日)
~「吉田秀和全集21 音楽の時間III」(白水社)P524
吉田さんが稀代の美声と唸ったバトルの歌唱は、当時の録音を聴いてもよくわかる。
最初のアリア「あなたに明かしたい、おお、神よ!」K.418を聴いただけで(ある意味)腰を抜かす。もちろん(ウィーン時代絶頂にあった)モーツァルトの作品が素晴らしいのだが、その表現力、内なる悲哀、あるいは喜びという感情、何より深層にある信仰までもが見事に語られており、これ以上はない。
そして、17歳直前の少年の筆によるモテット「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」ヘ長調K.165の文字通りの愉悦!
僕たちは、上っ面の美しさだけでなく、バトルの歌唱の深層の「真実」をつかまねばならない。それは、モーツァルトの作品の深層にある悲哀や慟哭を、明朗さや楽観の中に見つけることと同義だ。本質を感得する目を養うこと。要は「止まるところを知る」ということだ。
最高なるは、掉尾を飾るレチタティーヴォ「みじめな私、ここはどこ?」とアリア「ああ、語っているのは私ではない」K.369!!バトルは、CDも素晴らしいが、何よりライヴ・パフォーマンスを好むという。
(ライヴのバトルは本当に素晴らしい)
練習からリハーサル、そして本番までの過程にこそ「音楽」があるのだという。
一期一会を大切にする彼女の歌が悪かろうはずはない。

