ハイティンク指揮ロンドン・フィル ショスタコーヴィチ 交響曲第15番イ長調作品141(1978.3録音)ほか

ロマノフ王朝末期の強烈な個性。
抑圧されし者の爆発と融合。
ドストエフスキーとムソルグスキー。
20世紀、土臭い両者の芸術にショスタコーヴィチが切り込み、世界を震撼させる。

カーニバル的形象の構造の特質についてはすでに前述しておいたが、カーニバル的形象というのは、誕生と死、青春と老年、上層と下層、表と裏、賞賛と罵言、承認と否定、悲劇性と喜劇性等々といった生成の両極、あるいはアンチテーゼの両項を自らの中に取り込み、統合しようとするものであり、しかもこの二元一体の形象の上層の極は、トランプの絵模様の原理に従って下層の極に反映しているのである。このことは次のように表現してもいいだろう。すなわち、両極端が互いに出会い、互いを互いの中に見出し合い、反映し合い、知り合い、理解し合っているのだ、と。
しかしドストエフスキーの創作原理もまた、まさしくこのように定義できるのである。彼の創作世界に生息するものはすべて、自らの対立物との境界線上に立っているのである。愛は憎悪との境界線上に生息し、憎悪を知り、理解しているのであり、一方憎悪は愛との境界線上に生息し、同じように愛を理解しているのである。

ミハイル・バフチン/望月哲男・鈴木淳一訳「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)P354-355

たぶん、両極が統合され得ない世界にあって、ドストエフスキーもムソルグスキーも藻掻いていたのだろうと思う。20世紀になって、もはや統べる術が明らかになったとてショスタコーヴィチはその術に出会う前に逝ってしまった。縁なき大地にて創作されたそれぞれの抑圧こそがロシア芸術の核だったことは明らかだ。

ドストエフスキーのパロディー。
ショスタコーヴィチの引用、あるいはアイロニー。
両者のその方法は、フラクタルであろうか。

パロディーの場合は事情が異なる。そこでは作者は、文体模写におけると同様、他者の言葉を話すのではあるが、文体模写とは違って、その言葉の中に、他者の方向性とは真っ向から対立する意味的方向性を持ち込む。そして他者の言葉の中に根を下ろした第二の声は、そこでもともとの主人と敵対し、その主人をまったく背反した目的のために奉仕させようとするのである。言葉は二つの声の相争う戦場となるのだ。したがって文体模写や語り手による叙述(例えば、トゥルゲーネフの作品)においては可能であった二つの声の融合という現象は、パロディーでは不可能なのである。パロディーにおいては、二つの声は互いに孤立し、一定の距離によって隔てられているのみならず、敵対関係にある。だからこそパロディーにおいては、他者の言葉を知覚させようとするわざとらしさが、とりわけ強烈かつ明瞭でなければならないのである。そして、作者の意図もまた、一層個性化されたものであり、内容豊かなものでなければならないのである。
~同上書P390

それは同じくショスタコーヴィチの作品にも当てはまろう。
最後の交響曲。
「ウィリアム・テル」序曲からの引用、ワーグナーの「指環」からの引用、あるいは「トリスタン」の暗示など、まさにパロディーの宝庫たる傑作が、生成の両極の統合を目指すものとして再生される様子に言葉を失う。そのからくりがついに腑に落ちたとき、このアイロニカルな交響曲は、それ以前よりずっと迫真をもって心に響く音楽として生まれ変わるのである。

もしもある時代に、何がしかの権威を持った安定した屈折媒体がある場合には、そこでは条件づきの言葉が何らかの形で、何らかの程度において、支配的地位を占めるであろう。またそうした媒体がない場合には、複数の方向性を持った複声的な言葉、すなわち様々な形のパロディーの言葉、あるいは特殊なタイプの半ば条件づきの、半ばアイロニカルな言葉(後期古典主義の言葉)が、支配的な地位を占めるであろう。そうした時代、特に条件づきの言葉が支配的な時代には、直線的で、無条件な、屈折化されない言葉は、野蛮で未熟で粗野な言葉とみなされるのである。そこでは文化的な言葉とは、権威ある安定した媒体を通して屈折させられた言葉のことなのである。
~同上書P408

ショスタコーヴィチ:
・交響曲第15番イ長調作品141(1971)
ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1978.3.20&21録音)
・歌曲集「ユダヤの民族詩より」作品79(1948)
 第1曲:死んだ幼子を嘆く
 第2曲:心配性の母と叔母
 第3曲:子守歌
 第4曲:長い別れの前
 第5曲:警告
 第6曲:捨てられた父親
 第7曲:貧乏の歌
 第8曲:冬
 第9曲:よい暮らし
 第10曲:娘の歌
 第11曲:しあわせ
エリーザベト・ゼーダーシュトレーム(ソプラノ)
オルトラン・ウェンケル(コントラルト)
リシャルド・コルチコフスキー(テノール)
ベルナルト・ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1983.12.12録音)

全集録音初期の第15番イ長調と、全集後期の「ユダヤの民族詩より」の組み合わせは、この時期のハイティンクの進化と充実ぶりを如実に示す。これを最後に交響曲は打ち止めになるが、古典のフォーマットを遵守しつつ、表現されたのは自作や他人の作品を問わず数多の引用あっての「権威ある安定した媒体を通して屈折させられた言葉」としての音楽が見事に表現されていることが興味深い。ショスタコーヴィチはドストエフスキーの生まれ変わりではなかったか、そんなことを思わせられる。

そしてまた、「ユダヤの民族詩より」選ばれし11曲の、赤裸々な(二枚舌的)真実の言葉が胸を打つ。

あたしの世界一かわいい息子、
闇の中にきらめく灯りよ。
お前の父親はシベリアの牢で
皇帝の鎖につながれているよ。
お眠り、ねんねしな、ねんねしな。

お前の揺籃を揺すりながら、
ママは涙を流しているよ。
さぁさ、お眠り、安らかに、
静かに、ねんねしな、ねんねしな・・・

(ウサミナオキ訳)

暗いけれど、美しい。オルトラン・ウェンケルの歌、そして伴奏するハイティンクの真骨頂。

バルシャイ指揮ケルン放送響 ショスタコーヴィチ 交響曲第15番(1998.6録音) ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルのショスタコーヴィチ交響曲第15番(1976.5.26Live)を聴いて思ふ ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルのショスタコーヴィチ交響曲第15番(1976.5.26Live)を聴いて思ふ デュトワのショスタコーヴィチを聴いて思ふこと デュトワのショスタコーヴィチを聴いて思ふこと

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む