オロスコ=エストラーダ指揮hr響 ショスタコーヴィチ 交響曲第15番イ長調作品141(2018.9.7Live)

音楽について語るのは難しい。これは特別な才能をもった人であって、はじめてできることだ・・・。しかし音楽についてのどんな言葉も、その音楽そのものが与えるほど強く、聴衆の心に訴えることはできない。
(ドミトリー・ショスタコーヴィチ)

個と全体とが見事に統一された絶対交響曲。
いつものショスタコーヴィチらしく、奏者に相当の技量を求め、同時に古典的な構成を遵守しつつも全体として大きな満足感を聴衆に与える逸品。過去の巨匠の作品からの、そして自身の過去の作品からの数多の引用をアイロニカルに響かせるショスタコーヴィチの、人生の回想の記たる交響曲。

ハイティンク指揮ロンドン・フィル ショスタコーヴィチ 交響曲第15番イ長調作品141(1978.3録音)ほか バルシャイ指揮ケルン放送響 ショスタコーヴィチ 交響曲第15番(1998.6録音) オレグ・カエターニのショスタコーヴィチ交響曲第1番(2004.3Live)ほかを聴いて思ふ オレグ・カエターニのショスタコーヴィチ交響曲第1番(2004.3Live)ほかを聴いて思ふ ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルのショスタコーヴィチ交響曲第15番(1976.5.26Live)を聴いて思ふ ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルのショスタコーヴィチ交響曲第15番(1976.5.26Live)を聴いて思ふ デュトワのショスタコーヴィチを聴いて思ふこと デュトワのショスタコーヴィチを聴いて思ふこと

ショスタコーヴィチの音楽は視覚的だ。だから実演に触れることが一番だが、せめて映像を追うことができればその意味は一層深く理解できる。

ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団第682回東京定期演奏会 ラザレフ指揮日本フィルハーモニー交響楽団第682回東京定期演奏会

フランクフルト・アム・マインはアルテ・オーパーでのライヴ。
僕たちは想像力を駆使せねばならない。作曲家は、この最後の交響曲で何を言わんとしたのか? 純粋器楽の絶対交響曲とはいえ、意味深な表現について僕たちに「考えること」を求めるのである。

オロスコ=エストラーダの指揮は実に直線的。つまり、真っ直ぐなのだ。
ある意味、想像の余地なく、絶対交響曲として認識することを僕たちに強いる。
シンプルだが、実に難解な音楽であり、だからこそ一旦腑に落ちれば深遠かつ永遠の、時空を超えた作品として一生の宝となる。

この映像に集中して見よ。そしてまた集中して聴けよ。

はじめはしずかで、やっと聞きとれるほどだが、しだいにモチーフが発展し、テンポが早くなり、バラライカの胴をたたく威勢のいい音が聞こえてくる・・・これが最高潮に達したカマリンスカヤである。それこそ、ほんとに、せめて偶然にでも、この監獄内の演奏をグリンカに聞かせたら、彼はどんなに感激するだろうと、惜しまれるほどである。音楽にあわせてパントマイムがはじまる。カマリンスカヤがパントマイムのあいだじゅう流れている。室内の情景である。粉屋とその女房。粉屋はこっちの隅で馬具の手入れをしている、あっちの隅では女房が亜麻をつむいでいる。女房はシロートキンで、粉屋はネツヴェターエフである。
率直に言うが、わたしたちの舞台装置ははなはだ貧弱である。このパントマイムでも、まえの芝居でも、どれにしても同じことだが、目で見るよりも、むしろ想像でおぎなわなければならない。うしろには背景の幕の代りに、敷物か、場被のようなものがはられているし、右袖にはきたない衝立のようなものがおいてある。左袖はなにもないので、舞台裏の板寝床がまる見えである。だが、観客はうるさいことは言わないで、喜んで想像で実際をおぎなっている。しかも囚人たちはそういうことにはすっかり慣れきっているのだ。

ドストエフスキー/工藤精一郎訳「死の家の記録」(新潮文庫)P302-303

あと4年の生が残されていたとはいえ、ショスタコーヴィチは間違いなく死を意識して、交響曲第15番を創作したように思える。自身の死を嘲笑いつつ彼はまだ受け入れていない。
(まだまだ生きることに一生懸命だったということだ)
(それゆえに生き生きとした剽軽さが一層悲しく聴こえる)

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