
あらえびすの「楽聖物語」の序には次のようにある。
芸術は畢竟作者その人である。個性なくして芸術はあり得ず、創作者その人を知らずして作品の真髄を把握することは甚だむつかしい。本書を青年子弟のために書いた所以である。
~あらえびす「クラシック名盤楽聖物語」(河出書房新社)P2
あらえびすほどの知見も趣味もないものの、このことは僕も実感することだ、
音楽に限らず、それを創造する人、発信する人、すべてにその人の個性が刻印される。
否、もっと真相を辿れば、その人の個性の奥に潜む本性こそが刷り込まれていることがわかるのだ。
本性とは、生まれ変わりを超えた霊性そのものであり、命そのものだ。
大芸術家の作品はいずれも個性を超え、永遠不滅であり、まったく一人歩きを始める。
そして、残された譜面を頼りに、再生芸術家は想像力を持って作品に向き合い、テクニックをもって音楽を創造する。
この二重の創造活動を支え、後世の確認のために発明されたのが「レコード」だった。
現代のように、即席ではなく、ある一定の儀式を伴っての鑑賞は、行為として実に貴重な経験だった。少なくとも1980年代前半まではそういうものであり、僕自身も音盤を丁寧に扱い、夢見るようにレコードから発せられる音楽に浸っていた。
(今ほど知見も経験もない、浅薄な姿勢で、それこそ感性だけで音楽に真剣に向き合っていたあの頃はまた良い思い出だ)
昨日聴いたブルーノ・ワルターのウィーン時代の録音を聴きながら、一方でブッシュ弦楽四重奏団の録音がまた脳内で鳴っていた。あの懐かしい、弦楽の響きとクラリネットのふくよかな響きが相まって成されるブラームス晩年の音楽に、僕は恍惚とした。
「クラリネット五重奏曲=ロ短調(作品115)」はモーツァルトの同じ形式の曲と共に、二大家宝の感がある。非常に美しく、非常に深々とした曲だ。レコードはコロムビアにレナー絃楽四重奏団とドゥレーパー(クラリネット)のがあり、ビクターにはブッシュ絃楽四重奏団とケル(クラリネット)のがある。コロムビアのは最早二十数年前のもので、録音は甚だ古いが、このクラリネットのドゥレーパーは名手で、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」の場合にも私はベニー・グッドマン以上だと書いた筈だが、此処でも吹込の新しいビクターのケルより遥かにうまい。レコードの場合は、なんと言っても録音の新旧が大きい条件になるが、私は古い録音でも良いものは良いという例にこのレコードを掲げたい。尤も、ブッシュとケルの組合せも決して悪いものではない。
長時間ではケルがファイン・アート四重奏団と組んで入れたのがデッカにある。
~同上書P230
「良いものは良い」と評価するあらえびすの慧眼。
確かにレナーとドゥレーパーの、1928年の録音はあまりに美しい。
しかしながら、僕個人としては、よりごつごつした印象の強い、いかにも頑固なブラームスの、それでいて最晩年の孤独な憂愁がつきまとうブッシュとケルの演奏に軍配を上げる。
アビーロード第3スタジオでのセッション録音。
秋深まりつつある雨の日に聴くブラームスはまた格別。
ブッシュ弦楽四重奏団の古い演奏スタイルがまた乙。
後世に残したい録音の一つだ。

