いまにある、ということ

すごく落ち着いて安定している。
人生はいつも山があって谷があるものだが、今が山か谷なのかは後になってわかることで、その意味ではどちらでも良い。ともかく今はフラットな状態でいられるということが素敵。朝の目覚めも良い。もちろん寝つきも良い。時間も持て余すくらい長く感じるから瞬間を大事に集中して生きていければと思う。それと、やっぱり直感を大事にしようかと。世の中は常に変化しているようで、それに対応すべく懸命に努力することが美徳のように思われがちだが、新しいものを生み出す時って考えてできるものじゃないと思う。それこそ閃きと直感。そして、創造されたものが是か非かなんていうのも後になってわかること。自分を信じること。

果たしてこれまでの一般的な考え方、慣習がこれからの社会で通用するのだろうか。学生に講義をしながらいつも思う。少なくとも過去のケースを基に作られた既定の教科書やレジュメで授業をただ進行してもあまり役に立たないのではと。近いうちパラダイムシフトが起こったとき、きちんと臨機応変に対応できるよう真の意味での意識変革から促すべきなのかなと。

レッド・ツェッペリンの実質的なラスト・アルバムである”In Through The Out Door”を久しぶりに聴きながら、この後もしJohn Bonhamが死なずに済み、ツェッペリンがバンド活動を継続していたとしたら彼らの音楽はどういう方向に進み、ロック音楽の未来はどのように変化していたのだろうと想像した(でも、残念ながら想像なんてできない)。確かに、行き着くところまでハード・ロックを押し進め、自分たちの最高傑作(”Presence”)を創り出した後、ツェッペリンは長い空白期間に入る。もうこれ以上やることなんてないよ、と言わんばかりに。しかしさすがはJimmy Page。3年半後、当時の評論家や一般のファンがのけ反って驚くようなある意味ツェッペリンらしくないアルバムを携えて復活した。

Led Zeppelin:In Through The Out Door”

世界のあらゆる音楽イディオムを結集し、ツェッペリン独自の音世界を新ためて世に問うた勇気。いや、勇気というよりただの必然。もちろんそっぽを向かれるはずはないという自信もあっただろうし(とはいえ、少し時期は早かったのかも)。
10数年を経て僕が初めて”In The Evening”を耳にしたとき真底感動した。ひょっとすると他のどのアルバムを聴いた時より感激したかも。アラブ風雰囲気の前奏からRobert Plantの呼吸の深い歌に移る瞬間の何とも言えないゾクゾク感。これこそエクスタシーだと感じた。続く”South Bound Saurez”も”Fool In The Rain”もそれまでにないツェッペリンの方法。”Hot Dog”などはもうカントリー&ウェスタン。そして、”Carouselambra”!!この曲が大変素晴らしく・・・。

自分らしさを失わずしかも新しいものを生み出してゆく気概。その姿勢を失わなければいつどんな時代になってもそのものは新しい。これこそまさに普遍。そしてそれが「いまにある」ということ。

2 COMMENTS

雅之

>今が山か谷なのかは後になってわかること

それは、日本全体もそうなんじゃないですか?

・・・・・・しかしこの数十年間で最悪の名づけは平成といふ年号だつた。不景気、大地震、戦争とろくなことがないのはこのせいかも、と思ひたくなる。元号懇談会の委員のなかの一人、東洋思想が専門の某碩学が猛反対したのに押し切られたといふ噂を耳にしたけれど、本当に惜しいことをした。

 中国の年号では平の字が上に来るものは一つもない。日本では、これ以前はただ一つ平治があるだけで、平治と定めるとき、中国の例を引いてもめたのだが、多勢に無勢だつた。果せるかなあの戦乱が勃発。翌年一月、改元。碩学が異を唱へた論拠はおそらくこれではないか。

 しかしわたしが平成をしりぞけるのはこのためだけではない。日本語ではエ列音は格が低い。八世紀をさかのぼる原始日本語の母音体系は、a、i、u、öといふ四つの母音から成つてゐたと推定される(大野晋『日本語の形成』)。大野さんの説によると、このため後来のエ列音には、概して、侮蔑的な、悪意のこもつた、マイナス方向の言葉がはいることになつた。アハハと笑ふのは朗らかである。イヒヒとは普通は笑はない。ウフフは明るいし、オホホは色つぽい。しかしエヘヘは追従笑ひだ。エセとかケチとかセコイとか、例はいくらでも。なかんづくひどいのがヘで、例のガスを筆頭に、押されてくぼむのはヘコム、疲れるのはヘコタレル、言ひなりになるのはヘーコラ、上手の反対はヘタ、御機嫌とりはヘツラフ、力がないのはヘナヘナ、厭らしい動物はヘビ、と切りがない。ヘイセイ(実際の発音はヘエセエ)はこのエ列音が四つ並ぶ。明るく開く趣ではなく、狭苦しくて気が晴れない。これでは『史記』の「内平かに外成る」、『書経』の「地平かに天成る」にもかかはらず世が乱れるのは当たり前だつた。・・・・・・(中略)

・・・・・・ 元号のせいで凶事がつづくなどと言ふと、縁起をかつぐみたいで滑稽かもしれない。しかしあれはもともと呪術的な記号である。その呪術性に気がづかないのは、フレイザー=デュルケーム以後の文化人類学的思考に対する無知にすぎない。縁起ものだからこそ、平治のときのやうに、これはいけないとなると改元した。一世一元と定めた法律は、古代の慣行を捨てかねずにゐながら、しかも古人の知恵を無視して、生半可に近代化してゐる。早速、法律を手直しして改元すべきだらう。・・・・・・(丸谷才一著 『袖のボタン』「元号そして改元」 朝日出版社 より)
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けれども私は、明治、大正、昭和の生活なんて御免ですね。
いつも申しますように、何かを失うということは何かを得ていることなので、元号とか他人のせいにするのではなく、現在の与えられた条件下で、自分の価値観を信じ、いかに後悔しないように充実して生きるかが大切ですね。明治でも大正でも昭和でも戦時下でも一緒のこと。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
丸谷氏の言葉、興味深いですね。
一方で雅之さんのご意見にも首肯です。
まさに「いまここに生きる」ことが大切なんだとあらためて思います。

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