第11回「早わかりクラシック音楽入門講座」無事終了。今回のテーマは「編成で聴くクラシック」ということで、オーケストラ曲、協奏曲、室内楽曲などジャンルごとにいくつか映像を採り上げた。久しぶりに一部を観て感動したのが、クレンペラーが晩年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団を振って収録したベートーヴェンの第7交響曲。微動だにしない重心の低い悪く言えば鈍重な演奏、しかしよく言えば軸のぶれない神懸的境地の驚天動地のベートーヴェン。正規でリリースされているかどうかは不明だが、数年前にクラシカ・ジャパンで放映されたものを録画しておいたもの。いやあ、畏れ入る、凄い、素晴らしい。
それと、ジャクリーヌ・デュ・プレがズーカーマンとバレンボイム相手に収録したベートーヴェンの「幽霊」トリオ。これも若き3人の颯爽たる、そして確信に満ちた表現が楽聖の精神と見事にマッチして途轍もない名演奏。こういう稀代の演奏家たちのパフォーマンスに触れるとベートーヴェンの偉大さが一層明らかになる。
その流れで、いつもと趣向を変えてビル・エヴァンス・トリオがおそらく70年代中頃にテレビ収録した演奏の抜粋を。講座の中では”Gloria’s Step”を。エヴァンスならではの即興を効かせた演奏が圧倒的。しかしながら、こうやってトリオを並べて聴いてみると、クラシック、ジャズそれぞれの長所・短所が如実に浮かびあがる。ひとつは即興の問題。そう、楽譜に忠実かどうかという問題。かつてモーツァルトの時代も演奏の際自由にインプロヴィゼーションを加えたという事実。それは19世紀後半も同様に流れにあったものだろうが、20世紀に入りいつの間にか「原典主義」の名の下にそうやすやすと再現者が楽譜に手を入れられなくなった。その分、音楽に余裕がなくなったともいえるのだけれど。まぁ良い。
いずれにせよ、どちらが正しいか、あるいは良いかというのは愚問というもの。先のデュ・プレ・トリオ及びエヴァンス・トリオでいうならいずれのトリオも鬼神が乗り移ったような演奏ゆえ、大小の差こそあれ「即興」のという観点からみるなら十分。3人が互いに影響を与え合って音楽を創造するという行為が本来的だとするならどちらも完璧だし(嗚呼、少し酔っているようなので言うことが支離滅裂なり・・・)。
ということで、深夜に帰宅した今夜は即興の名手ボブ・ディランを聴く。ディランの表現は多彩だ。ひとつの楽曲も時と場所が変われば違った解釈になる。到底同じ音楽とは思えない逸脱したものが大半を占めるがそれはそれで良し。なぜなら音楽は生きているものだから。時間芸術の真髄ここにあり、である。
3枚組のこの音盤は、ディランの数十年にわたる歴史を短時間に一望でき、理想的なアルバムとして編まれている。1枚目は60年代のディラン初期のもの中心、2枚目が70年代のいわゆる全盛期の最高のプレイ中心に収録される。
ヘイ ミスター・タンブリンマン歌っておくれ
眠くはないけれど 行くところもない
ヘイ ミスター・タンブリンマン歌っておくれ
ジャンジャンジャンの朝に ついていこうよ
夕べの帝国は砂に戻り
この手から消え
ひとりここに盲目のように立ってはいるが
まだ眠くはない
この倦怠はものすごい
私は足に釘付けになっている
誰にも会いたくないし
昔の虚しい街頭は夢を見るには
あまりにも死んでいる
うーむ、もうひとつよくわからない歌詞だ。邦訳に問題があるのだろう。ディランの歌詞はおそらく直訳できまい。意味を読み取らないと・・・。このあたりも計算された即興があるように僕には思える。
おはようございます。
>うーむ、もうひとつよくわからない歌詞だ。
歌の歌詞っていうのは、いつの時代でも洋の東西を問わず、時に思い切り抽象的・象徴的になり、意味よりも音、韻や言葉遊びが優先しますよね。聴き手の想像力の器の大きさを試しているかのように・・・。
「愛の言霊~Spiritual Message~」 歌詞:桑田佳祐 より
生まれく叙情詩(セリフ)とは
蒼(あお)き星の挿話(そうわ)
夏の旋律(セリフ)とは 愛の言霊(ことだま)
宴はヤーレンソーラン
呑めど What Cha Cha
閻魔堂(えんまどう)は 闇や 宵や宵や
新盆(ぼん)にゃ丸い丸い月も酔っちゃって
由比ヶ浜 鍵屋 たまや
童っぱラッパ 忘れ得ぬ父よ母よ
浮き世の侘しさよ
童っぱラッパ 名も無い花のために
カゴメやカゴメ 時間よ止まれ
エンヤコーラ!!
生まれく叙情詩(セリフ)とは
蒼き星の挿話
夏の旋律とは 愛の言霊
縁はヤーレンソーラン
千代に What Cha Cha
釈迦堂も 闇や 宵や宵や
鳶(とび)が湘南浪漫 風に舞っちゃって
縁の先ゃ 黄泉(よい)の国や
童(わ)っぱラッパ 戦災(いくさわざわ)う人の
涙か蝉しぐれ
童っぱラッパ 祭り囃子(ばやし)が聴こえる
遊べよ遊べ ここに幸あれ
エンヤコーラ!!
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四谷赤坂麹町、ちゃらちゃら流れるお茶ノ水、
粋な姐ちゃん立ち小便。
白く咲いたか百合の花、四角四面は豆腐屋の娘、
色は白いが水臭い。
結構毛だらけ、猫灰だらけ、お尻の周りは糞だらけ。
>雅之様
おはようございます。
>意味よりも音、韻や言葉遊びが優先しますよね。聴き手の想像力の器の大きさを試しているかのように・・・。
おっしゃるとおりですね。
日本語歌詞ならまだしも英語となると訳者の感性もありますので余計に意味が分からなくなります。
やっぱりディランも原語から感覚的に理解すべきですね(どんなものも作者の母国語でしか真意は理解できないと思います)。