デュトワ指揮フィラデルフィア管のラフマニノフ交響曲第2番を聴いて思ふ

rachmaninov_symphonies_dutoit膨張宇宙といっても寿命は数百億年。無限に比べれば瞬間に過ぎない。さらにさらに瞬間に過ぎない人間が現宇宙の数百億年を超えた無限大に向かわなければ、精神の徹底性はないと思う。

作家、埴谷雄高の言である。真に奥深い。
埴谷が言うように、人間が無限大、すなわち目に見えない幽玄に向かわない限り魂は決して救われない。精神の徹底性とは孤立を指すのでなく、逆にすべてがひとつになることなのだと僕は思う。むしろそれは、調和、あるいは共存というものの内に在る。

精神疾患の快癒、そして結婚と子どもの誕生という幸福の最中にあったラフマニノフが生み出した傑作。幸せの心境がそのまま投影される2番目の交響曲は、ロマンティスト、ラフマニノフの真髄。時代の不穏から導き出された耽美ともいうべき浪漫。それこそが作曲家の本懐なのである。
なるほど、音楽を言葉で表すことなど本来不可能。真理が言語化不能であるのと同様、音もそもそも言葉にはできない。それをあえて表現しようとするその行為に無理があるのだが、この際この交響曲について思うことをぶつけてみようか。

ラフマニノフに聴くべきはとにかく旋律美。どれほど整理されず冗長だろうと、内から湧き出ずる浪漫を体感しないことにはラフマニノフはわかり得ない。ラフマニノフが泣き、笑い、喜ぶ。

ラフマニノフ:
・交響曲第2番ホ短調作品27(1991.11録音)
・幻想曲「岩」作品7(1993.2録音)
シャルル・デュトワ指揮フィラデルフィア管弦楽団

長い第1楽章ラルゴ―アレグロ・モデラートにみる深い情念。弦による第1の主題も木管による第2の主題も、そこに在るのは愛であり哀。哀しみの横溢するシンフォニーこそラフマニノフらしい。
第2楽章アレグロ・モルトの踊る主部に対して、官能的で憂いのある中間部に思わず涙する。完全なるロシアン・ロマンス。シャルル・デュトワが唸り、咆える。
そして、第3楽章アダージョの主題の切なさに、人間の孤独とひとつになることへの憧憬を思う。
さらに、終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェの力強さと見事な勝利の凱旋に作曲者の天才を発見する。

朗々たる音の流れに身を寄せるとき、人は素直になる。
これもデュトワの棒の奇蹟。

ちなみに、幻想曲「岩」にみる、暗澹たる象徴と明朗な存在の相対にラフマニノフの内側の健全さと狂気を知る。言葉が有限であるのに対し音楽は無限だ。
諸君、言葉を捨て、音に身を委ねよう。

過去記事/2007年10月3日:「寂寥・・・」

 

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