バックハウス&シュミット=イッセルシュテットのベートーヴェン協奏曲第4番&第5番を聴いて思ふ

beethoven_concertos_backhaus_isserstedt266枯れた侘び寂のト長調協奏曲、そして変ホ長調協奏曲。
音楽はその人柄を見事に反映する。
バックハウスのベートーヴェンにあるのは、老境にしか見えない「一元」。
フルトヴェングラーの「フィデリオ」(1950Live)に象徴されるように、ベートーヴェンは両性具有者であり、すべてがひとつであることを悟った人なのだと思わせる境地がここにもあった。

協奏曲第4番ト長調の、冒頭ピアノ独奏に垣間見る「優美さの中の雄渾さ」はアニムスの体現であり、一方、協奏曲第5番変ホ長調冒頭のカデンツァに見出す「壮大さの中の繊細さ」はアニマの体現。
ユリウス・パツァークの歌うフロレスタンの内に在る女性性、そしてキルステン・フラグスタートの歌うレオノーレに内在する男性性のシンボライズこそ、フルトヴェングラーの醸す「場」の真骨頂であったが、鍵盤の師子王の異名を持つバックハウスこそ音楽にそういうものを投影できる音楽家の中の音楽家であり、ピアニストの中のピアニストであるとあらためて直感した。

男性ではアニマはほとんど決まった形であらわれ、どの男性でも多かれ少なかれ似通ったものであると私たちはきかあれている。母や恋人として、姉妹や娘として、女主人や女奴隷として、女教皇や魔女として、ときには明るいものと暗いもの、助けるものと滅ぼすもの、高いものと低いものというように、その都度対立するしるしでもってあらわされるという。
これに反し女性では多様な男性たちがあらわれる。大勢の父たち、助言者、法廷、賢者のあつまり、どんな姿にでもなれその力を十分に活用できる早変わりの芸人。
エンマ・ユング著/笠原嘉訳「内なる異性―アニムスとアニマ」(海鳴社)P41-42

男なる者は、常に二元の中にありながらひとつになることを求める。
一方女なる者は、すべてを包含しながらもどこか客観的冷静に物事を見つめ、その実対立的だ。
バックハウスの楽聖4番に発見するのはまさに後者であり、楽聖5番に見るのは前者ではないのか。初めて耳にした時から35年。この演奏の普遍性の謎がようやく解けたように思う。

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第4番ト長調作品58(1958.4録音)
・ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」(1959.6録音)
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ト長調協奏曲第1楽章アレグロ・モデラートの優しさ。そして、第2楽章アンダンテ・コン・モートの暗さの中にある明快さ、さらには、終楽章ロンドの軽快な愉悦の内側の哀しみ。ベートーヴェンの「一元」を巧妙に表現するバックハウスの天才がここにある。

変ホ長調協奏曲第1楽章アレグロは、一見淡々と直線的に進む。しかし、やはり内に在る曲線的な「自然」を感じさせる様相にピアニストの類稀な力量を思う。
白眉は第2楽章アダージョ・ウン・ポコ・モッソ。ここには、恋するベートーヴェンの柔和で静謐な想いが充溢する。終楽章ロンドも幸せだ。

人生の最終コーナーになって、ようやく見つけることのできた幸福感。
過去のすべてを受け容れ、そして今を生きることの大切さ。
至高の芸術である。

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

この演奏は絶品です。バックハウスはギリシア、オリュンポス神殿の威光だとしています。シューマンが交響曲第4番を可憐なるギリシアの乙女と名付けていますから、正鵠を得ていますね。
私はこれを聞き、日本では「東洋のギリシア」といわれる奈良がぴったりだと思います。第2楽章での冥界のオルフェウスとハデスとのやり取りから、法隆寺の救世観音像を思わせます。ギリシアと奈良、素晴らしい取り合わせです。
ちなみにバックハウスが1954年に来日した際、奈良へ行って、大仏殿を見たそうです。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
確かに奈良の雰囲気にはぴったりかもですね。
永遠不滅の名演だと思います。
ありがとうございます。

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