ノット指揮東響のモーツァルト 歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588(演奏会形式)

cosi_fan_tutte_nott_tokyo_20161209701モーツァルトはやっぱり人を幸せにする。
レチタティーヴォの、ニュアンス豊かでセンス満点のハンマーフリューゲルでの伴奏を聴いて、そして流麗で的確、愉悦に富む指揮姿を見て、この人はヴォルフガングの生まれ変わりではないのかと思ったくらい。序曲から音楽は弾け、第1幕も第2幕も息を飲むほどの勢いで胸に迫る。25分の休憩を挟んでの、夢見る4時間弱。あっという間だった。
今さらだけれど、今日から僕はモーツァルティアンだ。素晴らしかった。心底感動した。何より6人の独唱陣の抜群の歌唱力とジョナサン・ノット率いる東響交響楽団の演奏の巧みさ。そして、舞台のディレクションを任されたサー・トーマス・アレンの老練。そこへ、もちろん晩年のモーツァルトの音楽の底なしの美しさ。
どこをどう切り取っても完璧だった。

2016年12月9日(金)18:30開演
ミューザ川崎シンフォニーホール
・モーツァルト:歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588(演奏会形式・原語上演)
ジョナサン・ノット(指揮、ハンマーフリューゲル)
東京交響楽団
新国立劇場合唱団(合唱指揮:三澤洋史)
サー・トーマス・アレン(舞台監修、ドン・アルフォンゾ、バス)
ヴィクトリヤ・カミンスカイテ(フィオルディリージ、ソプラノ)
マイテ・ボーモン(ドラベッラ、メゾソプラノ)
ヴァレンティナ・ファルカス(デスピーナ、ソプラノ)
アレック・シュレイダー(フェランド、テノール)
マルクス・ウェルバ(グリエルモ、バス)

音楽の愛らしさもそうだが、何よりその深み。
モーツァルトは人間同士の思惑のぶつかりや駆け引きはあるべくしてある必然なんだとわかっていたようだ。もちろん彼自身もいわゆる「ゲーム」をしたし、また「ゲーム」にはまった。そこは、わかっていても抜けられない人間の愚かさとでも言おうか。しかしながら、第2幕フィナーレ最後の六重唱は極めつきであり、この悟りの場面(?)を見て、まるでモーツァルトが220年前に既に彌勒の時代の到来を予言していたかのように思えてならなかった。
「コジ・ファン・トゥッテ」の物語そのものがヒューマニスティックであり、そこには人間臭さや世界の表裏を描き切る俗的なものが表現される。そして、それをあくまで客観視するヴォルフガングがそこに在るのだ。

幸あれ心の素直な
善良な人々に、
嬉しい時にも、悲しい時にも、
いつも正しく自分を導きなさい。
時には涙を流すことがあったとしても
笑いをそこに与えなさい。
途中で嵐にあうことがあろうとも、
美しい安らぎを見出すことでしょう。
(歌詞対訳:武石英夫)

困窮の中にあって、それでもモーツァルトは自分にそう言い聞かせた。どれほど波乱万丈ドタバタの喜劇であろうと、彼の音楽に底知れぬ哀感(それに伴う静けさ)が感じられるのはそれゆえだ。
それにしても、アリアといい、二重唱、三重唱などのアンサンブルといい、今夜の出演歌手陣の一体感というのは、舞台上での堂に入った演技とあわせて本当に素晴らしかった。感動いまだ冷めやらず。文句なしに今年の一番!

 

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3 COMMENTS

雅之

考えてみれば、人間社会のどんなに悲劇も、俯瞰すれば喜劇なんですよね。全部、青い地球を顕微鏡で見た出来事です。

茶番政治から有名人のゴシップネタに至るまで、三谷幸喜や宮藤官九郎が脚本を書いたら全部喜劇になりそうです。

極北が、モーツァルト&ダ・ポンテの諸作品であり、この境地に達すると、喜劇にわけもなく泣けてくるのであり、それこそが我々が生ている中での真の幸福感なのだと思います。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

本日のコメントには120%共感です。
言いたいことのすべて、いや、それ以上のものが全部含まれております。
ありがとうございます。

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