バブルの頃の思ひ出

verdi_aida_muti.jpg諸事情により愛知とし子のセカンド・アルバム「bathing in the moonlight(月光浴)」の編集作業を再度余儀なくされ、昨日と今日「スタジオ缶詰」につきあった(笑)。絶対音感もなく楽譜も読めない僕が何か具体的に役に立つこともないといえばないのだが、感覚的には良し悪しはわかると自負しているので、まぁ同伴した甲斐はあるだろう。例によって楽曲解説も僕の書き下ろしだし、アルバム・タイトルも僕の発案だし・・・(自慢・・・笑)。1ヶ月後には無事リリースできると思うが、ホームページ上では予約を受け付けているので、皆様ぜひご購入を(収録時間ぎりぎりまで詰め込んだ、まさに「癒し」の音楽集です)!

ところで、ここに一冊のカタログのような分厚いプログラムがある。
アサヒビール創業100周年記念「アレーナ・ディ・ヴェローナ『アイーダ』東京公演」。
1989年(平成元年)12月8日(金)から14日(木)にかけて国立代々木競技場第1体育館で開催された野外オペラの引越し公演に招待され(僕が行ったのは14日の公演)、当時(今も決して得意ではないが)イタリア・オペラに関して右も左もわからないまま、その大仰で派手なスペクタクルに度肝を抜かれながらも、居眠り半分でヴェルディの舞台を楽しませていただいたことを思い出す。後数年もすればバブルが弾けることなど想像すらできなかった平和で能天気な時代。企業のメセナ活動が流行し、主催や協賛欄には有名大企業の名が連なる。当時、僕はある放送系のイベント会社でコンサートや展覧会などのプロデュース業に就いていた。しかもまだ社会人歴2、3年の若造である。配布されたプログラムもさることながら、その舞台たるや大変なお金のかけようだった。
20年前、世の中の人々がみな浮かれていたあの時代。東京の夜空に浮かぶ月や星の明かりをたよりに観た「アイーダ」の舞台は決して忘れない。ドイツ音楽に一辺倒で、イタリア・オペラにはほとんど興味を示さなかった僕ですら、あの時の光景はまざまざと思い出すのだ。一種の狂気であり、乱舞である。僕にとってのヴェルディ・オペラはバブルの頃の思い出と直接結びつく。

ヴェルディ:歌劇「アイーダ」
モンセラ・カバリエ、プラシド・ドミンゴ、ニコライ・ギャウロフ、ピエロ・カプッチッリほか
コヴェント・ガーデン王立歌劇場合唱団
リッカルド・ムーティ指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

僕は基本的にムーティは苦手だ。彼が棒を振るコンサートも観た。ウィーン国立歌劇場でオペラも観た。どこがいいのかさっぱりわからない。まったく感動しない。それでもこの「アイーダ」は立派だ。多分、ヴェルディなどのイタリア・オペラはオーケストラよりも歌手の力量がものをいうんだろう。少なくともこの音盤に抜擢されている歌手陣は当代随一のヴェルディ歌手たちであり、相当お金をかけて作っているのだろうと想像できる。指揮は別にムーティじゃなくても誰でもよかったのかも・・・(笑)。

「ジュゼッペ・ヴェルディこそは数あるイタリアの作曲家の中でも特別な存在だ。イタリアが統一という生みの苦しみのさなかにあった19世紀後半は、ヴェルディ自身にとっても苦難の戦いの時期であった。彼はみずからの作曲活動を通じて愛国心を訴え、不屈の心と人間の意思の力を歌い続けてきた。そうした彼の『歌』は、今でもイタリア人の心に深く刻まれ、彼の作った美しいメロディとともに瑞々しく生き続けている。」
~「アレーナ・ディ・ヴェローナ『アイーダ』東京公演」プログラム

歌劇「アイーダ」は1871年の初演のときから爆発的な人気を博した。ヴェルディの生涯で比べることのできるものがないほどの大成功だったのだ。「アイーダ」誕生の背景には、あるソプラノ歌手との不
倫関係がある。つまり「新しい恋」が天才作曲家に新たな実りをもたらしたのだ。

asahina_orchestra_works.jpgちなみに、今日は朝比奈隆の101回目の誕生日である。朝比奈先生は若い頃はイタリア・オペラも数多くとりあげたらしいが、僕が舞台に触れるようになった晩年にはレパートリーが極端に狭められ、御大のオペラも当然ながら、イタリアものなどを聴く機会すらなかった。70年代~80年代初めに録音された「管弦楽名曲集」のようなアルバムで辛うじて「アイーダ」の大行進曲や「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲を聴くことができるくらいなので、録音で楽しませていただく以外にないが、こういうイタリアものを振らせてもまるでワーグナーじゃなかろうかと思うほど朝比奈流のどっしりとした重厚な表現で、僕にはしっくりとくる。
ちょうど前述の「アレーナ・ディ・ヴェローナ東京公演」同様、あの頃新日本フィルとのベートーヴェン・ツィクルスが始まったんだなと思うと妙に懐かしくなった。いまだにあれを凌駕するものがない本当に最高のベートーヴェンだった。

管弦楽名曲集
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー管弦楽団(1980.2.4-5)


6 COMMENTS

雅之

おはようございます。
愛知とし子さんののセカンド・アルバム「bathing in the moonlight(月光浴)」の編集作業、お疲れ様です。出来上がりが楽しみです。
1989年12月29日、- 東証の日経平均株価が大納会で史上最高値の38,915円87銭!、私は当時東京には居ませんでしたが、独身のこの年のクリスマス・イブは、当時お付き合いさせていただいていた「じゃじゃ馬」とご多分に洩れずバブルらしくハデでした(爆)。ご紹介のこの年の「アイーダ」は、いろいろと話題でしたね(確か本物の象も出してましたっけ?)。
ところで、岡本さんは度々好んで「自己責任」という言葉を使われますが、
http://classic.opus-3.net/blog/cat29/post-170/
私はそのことに少し違和感があります。
高度成長やバブルの経済的恩恵を散々享受した我々より上の世代が、ほとんど恩恵を受けていないバブル後世代に「自己責任」を説くことには、抵抗があります。
「自己責任」という言葉をWikipediaで調べると、
第一に、「自己の危険において為したことについては、他人に頼り、他人をあてにするのでなく、何よりもまず自分が責任を負う」という意味がある。「お互いに他人の問題に立ち入らない」という価値観によるものである。アメリカ社会における国家観に立脚した行政改革・司法改革による事後監視、事後救済社会における基本原則の一つである。もっとも、この原則は十分な情報と判断能力がない場合には妥当しない。
第二に、「個人は自己の過失ある行為についてのみ責任を負う」という意味がある。個人は他人の行為に対して責任を負うことはなく、自己の行為についてのみ責任を負うという近代法の原則のことである。(以下略)・・・
といった意味合いが強く、現在は例えば次のようなマイナス・イメージの文脈で使用されることが多いですよね。
・・・・・・今日までの日本社会は「自己責任」と「助け合い」の二つの原理で成り立ってきた。小泉首相は「自己責任」のみを一方的に強調することによって「助け合い」を放棄してしまった。マスコミがこれを応援したことにより、日本社会運営の基本である「助け合い」は、あたかも罪悪のごとくに見られるようになった。小泉内閣を支持し支えている巨大宗教団体までも「助け合いなき自己責任」を推進した。「助け合い」を否定する巨大宗教団体―― 宗教の堕落である。小泉政権支持のマスコミも「助け合いなき自己責任」をあたかも正義のごとく宣伝した。
この結果、日本はおそろしいほど冷たい社会になってしまった。政府、官庁、経済界、銀行、学会、マスコミ界には「人情紙より薄い」タイプの指導者が増えた。・・・・・・
(中略)
・・・・・・日本社会のなかに公共精神の急激な衰退が起きている。社会全体の利益をはかろうという公共精神が、あたかも悪いことのように扱われている。・・・・・・(社)逓信研究会発行の『耀』 7 8 月号『小泉構造改革が残したもの』政治評論家 森田 実
現在「自己責任」を錦の御旗に掲げたアメリカや日本の「新自由主義」は、国の財政出動や企業を公的資金で救済することに頼る、ほとんど社会主義のような状態に陥っています。どこが「自己責任」なんでしょう。そしてその財政負担は、若い世代に確実に伸し掛かっていくのです。
これは岡本さんの思い描く理想の社会像とは、ずいぶん異なるはずなんですが・・・。
「アイーダ」の話に戻りますが、ご紹介の盤は、現在は所有していませんがキャストも豪華な名盤で好きでした。他にはマリア・カラスの名唱が聴ける複数の盤や、初めてウィーン・フィルがヤマハのアイーダ・トランペットを採用した話題に興味を持ち、カラヤン盤を所有していた時期もありましたが、現在はレヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場のDVDのみを持っています。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/506287

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岡本 浩和

>雅之様
>確か本物の象も出してましたっけ?
あー、どうでしたっけ?すっかり記憶にございません・・(笑)。
あと、今日の本題である「自己責任」について。
確かに、ご指摘の通り否定的な文脈の中で使われることが多いですが、僕が言う「自己責任」というのは決してアメリカ的、個人主義的な意味でのものとニュアンスが違います。
人は関係性の中で生きていますから、世の中の状況や環境にもちろん左右されるという前提で言うと、おっしゃるとおりバブルを経験した世代とそうでない世代とではそもそも同じ尺度では何事も語ることはできません。
僕は常々、「自分らしさ」、「自分軸」の重要性を問うてきました。それも雲を掴むかのようなものではなく、あくまで地に足のついた「自分らしさ」、「自分軸」です。そういう自分軸は、「自己中心的」に自分がやりたいことをやるということとか、「わがまましたい放題」ということではなく、他者(他のもの)への感謝の気持ちや愛情をもち、相手を思い遣ることができるからこそ確固としたものになると思うのです。要するに、相手への想いあっての自分軸なんですね。他者との関係あってこその自分軸なのです。自分勝手に自分のことしか考えないでいると、遅かれ早かれ「不安」が自分を襲い、軸がぶれるような事態に陥ります。「不安」が増すとますます自分に固執するようになるのです。結果、誰かに依存せざるを得なくなり、自身も窮地に追いやられる。
ひとりひとりこの世の中に生まれてきた以上、世のため人のために「役に立たなければならない」何かがあると思います。そういうものを探し出すことが大切であり、そのことも含めて「自己責任」だと思うのです。
うーん、何だか答になってるようななってないような・・・。
この件は、ゆっくり会話をしながらニュアンスを掴んでいただきたいので、今日はこの辺にしておきます。

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雅之

こんばんは。
ご多忙な中、いつも私の面倒なコメントに返信をくださり、感謝です。
「自己責任」の件、おっしゃりたいことはよく理解できました。
今回に限らず、音楽の話題もそうですが、こちらでコメントさせていただくことは、前にも申しましたとおり森羅万象についての視野を拡げ、自分の人間の器を大きくすることにつながっておりまして、仕事にも大変役立っております。
岡本さんにはご迷惑をおかけいたし申し訳ないのですが、自分自身のためにコメントしているようなものなのです。
今日も大きな仕事をひとつ決めることができましたが、これも岡本さんにいろいろご教示いただき人間の器を拡げた成果だと思っております。本当におかげさまで仕事も対人関係も絶好調です!
これからは、面倒なコメントには無視していただいても結構です・・・と書きかけましたが、訂正!やはり絶対返信お願いします(なんのこっちゃ・・・笑)。
とにかく、ありがとうございました!
仕事の途中なので取り急ぎこれで失礼いたします!

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
>これも岡本さんにいろいろご教示いただき人間の器を拡げた成果だと思っております。本当におかげさまで仕事も対人関係も絶好調です!
いえいえ、滅相もない。僕は場を提供しているに過ぎないですから、すべて雅之さんのお力です。でも、絶好調でほんとによかったです。
>やはり絶対返信お願いします
もちろんです。何が何でも返信します(笑)。

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