ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省響のブルックナー第4番(1984.11.19録音)を聴いて思ふ

透明さを失うのに代え、獲得するのは雄渾なるパワー。恐るべき金管群。信仰が吹っ飛ぶ感じ。神に命を捧げようとしたブルックナーは、たぶん志半ばにして斃れた。無念の思いが残る最後の交響曲は、未完であるがゆえに人々に受け入れられたという矛盾を孕む傑作である。弟子を含め後世の人々は師の思いを世に知らしめるべくあらゆる手を尽くした。

管弦楽法の大幅な変更、あるいは大胆なカット。時代を下り、人間の思考や感性が追いついたとき、ようやく彼の音楽は受け入れられたのだが、同時に弟子たちが奔走した「改訂」という作業は、ある意味無駄になっていった。

昨年、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが読売日本交響楽団の定期演奏会に、ブルックナーの交響曲第5番を、それも悪名高いフランツ・シャルクの編曲版を引っ提げて登場したときの衝撃はいかばかりだったか。それまで、せいぜいハンス・クナッパーツブッシュによる録音でしか耳にすることができなかったかの改訂版が、何と現実に目の前に現れたのだから。

果たしてそのコンサートは素晴らしかった。ロジェストヴェンスキー独自の粋な解釈を織り交ぜながらの演奏は、終楽章コーダの、バンダを補強した極めつけの爆発に聴衆の誰もが唖然とした。予想外に遅いテンポで繰り広げられた壮大な宇宙に、人間の深い業を思った。僕はそれ以来、第4番「ロマンティック」や第9番のレーヴェ改訂版の実演に触れることが夢になった。それを叶えてくれるのは、ロジェストヴェンスキー以外にはないと思っていた。しかし、その夢も、残念ながら潰えた。
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが亡くなった。

・ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(フェルディナント・レーヴェ改訂版/グスタフ・マーラー補筆改訂版)
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省交響楽団(1984.11.19録音)

ロジェストヴェンスキーは過激であり、また革新的だった。
最晩年のアルマ・マーラーは、グスタフの演奏するブルックナーの第3番について次のように語っていた。

ロマン的心情の許すかぎりの、身も心も溺れきった、献身の極致ともいえる演奏でした。ここには作曲者マーラーのなかでしゅん動していたさまざまな要素も見てとれます。それは真の現世信仰、感覚のめくるめく陶酔・・・、それに人間の理解を超えた宇宙的世界への神秘的な参入という要素です。指揮者としてのマーラーはこの交響曲の瞑想性に自己充足を見いだしていました。彼は指揮を終えるといつも短い祈りの言葉を静かにつぶやきました。
金子建志著「こだわり派のための名曲徹底分析—ブルックナーの交響曲」(音楽之友社)P158-159

第1楽章アレグロ・モルト・モデラートの圧倒的音響、金管の咆哮も打楽器の轟きもあまりに人間的業の反映であり、聴く者を責め立て鼓舞する。第2楽章アンダンテの温かさ、そして、第3楽章スケルツォの溢れる生命力。白眉は終楽章の神秘さを超えた、大袈裟なまでの人間的愉悦。

改訂版、否、改竄版を馬鹿にすることなかれ。
何であれ、認められ、世に流布する版であったゆえ。そもそも作品そのものに罪はないのだ。

ロジェストヴェンスキーによるマーラー版「ロマンティック」を、僕は心底聴きたかった。
合掌。

 

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