もっと自由に、もっと想像力を飛翔させて!!

liszt_heidsieck.jpg愛知とし子による多治見市文化会館での恒例のコンサートが今年も開催される予定だが、そろそろプログラムを決定せねばとあれこれ頭を捻り始めた。詳細はまだまだオフレコだからあえて書かないが、メインになるトリオをどうするかを少しばかり議論した。なるべくヴァイオリンやチェロが華やかに聴こえる楽曲で、それほど有名ではなくとも名曲といわれているものをいくつか挙げてみた。僕としてはベートーヴェンの「大公」を第一に推すが、ピアノ・パートの難易度が高過ぎるということであえなく却下。あとドヴォルザークの「ドゥムキー」か、いっそのことファニー・メンデルスゾーンかクララ・シューマンのものでもやってみればということにもなったが、いずれもピアノが目立ち過ぎるようなのでこれまたパス。で、シューベルトはどうだろうと、カザルス・トリオによる古い録音を久しぶりに取り出して聴き始めた。19世紀ヨーロッパのきらびやかなサロンでの舞踏会風の雰囲気を十分醸し出しており、「これはいいかも!」と考えているところ・・・。


またもやフランツ・リストについて。大ヴィルトゥオーソ、リストの演奏は技術的には完璧であったということだし、さらには自身の感性、思考を音化するために常に即興を加えて聴衆に披露していたということだから、リサイタルのたびに解釈に変化があって非常に面白かったようだ。まさに現代のジャズ・ピアニストのような何でもありの演奏だったのだろう。リストが自作を何度も推敲し、作品にいくつもの稿が存在するのも「改訂癖」というより、常に新しい要素を加えたパフォーマンスを狙っていた、というよりそういう閃きに溢れていたためだったということが、こういうエピソードからも理解できる。

そんなリストの音楽も、幸か不幸か作曲者自身によって楽譜という「閉ざされた形」に押し込められてしまった故、現代の奏者に想像の余地を与えないようにしてしまったというのは何とも皮肉。あるいは、リスト自身がピアニストの「かくあるべし」という形を作ったものだから、後世の音楽家(少なくともクラシック音楽の世界)はその形を踏襲することに労力を費やさざるを得ないのか・・・。

もっと自由に、もっと想像力を飛翔させて!!フランツ・リストが生きていて、今の巷に溢れるピアノ音楽を聴いたら何て言うだろう・・・。

リスト:
・ノルマの回想(ベルリーニのオペラによる)
・葬送曲~詩的で宗教的な調べ第7曲
・小鳥に語るアッシジの聖フランチェスコ~2つの伝説第1曲
・海を渡るパオラの聖フランチェスコ~2つの伝説第2曲
・悲しみのゴンドラ第1番
・メフィスト・ワルツ
エリック・ハイドシェック(ピアノ)

例によって、棚の奥に眠っていた音盤。恥ずかしながら、ようやくリストの音楽に目覚めたことで、俄然この録音の価値を思い知った。エリックらしい即興性がちらほら見えるものの、基本的には端正に音楽を進めてゆく。本当はもう少し極端なデフォルメも欲しかったが、そこはないものねだり。そんなことを考えていて思い出した。昨年の黄金週間に聴いたポゴレリッチのメフィスト・ワルツは凄かったなぁ。確か20分を超すスローテンポの超デフォルメ大会だったから、リストが聴いていたら「よくやった!」と唸ったかも・・・。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
ちょっとリストから外れて、今後の思考を整理するうえで、「曲」と「即興」との関係について考えました。
ジャズのジャンルでは、中山康樹さんが入門書でこんなことを書いておられます。
・・・・・・たとえばマイルス・デイヴィスが典型ですが、彼が作曲したとされる曲は、そのほとんどが「リフ」とか「スケッチ」と呼ばれる断片的なものであり、「作曲」といっても、テーマ・メロディーや部分的なコード・チェンジだけのものが大半を占めます。
『カインド・オブ・ブルー』というアルバムの一曲目に入っているマイルスのオリジナル、《ソー・ホワット》のテーマ・メロディー(導入部)を聴いてみましょう。
 なんとシンプルなのでしょう。これがはたして「作曲」といえるでしょうか。
 かと思えば、ジョン・コルトレーンのようなミュージシャンもいます。
 コルトレーンは、映画やミュージカルで知られる『サウンド・オブ・ミュージック』の挿入曲のひとつである《マイ・フェイヴァリット・シングス》という曲を生涯のレパートリーにしましたが、ではその曲を原メロディーに忠実に演奏したかといえば、そうではありません。むしろ演奏するたびに「破壊」していき、ときには原曲のメロディーがまったく出てこないという、おそろしい事態に突入することも珍しくありませんでした。
 つまるところ、ジャズにおける「曲」とは、演奏をするための「素材」や「きっかけ」でしかないということです。
 そして、その曲の「名曲度」にかかわらず、それを「名曲」にするのも「駄曲」にするのも、すべてはそのミュージシャンによる演奏、すなわち「名演度」にかかっているということになります。
 このように考えていくと、「ジャズに名曲なし、名演あるのみ」という先達の言葉は、ジャズの本質をついた、じつに正しい言葉であるかもしれません。・・・・・・「超ジャズ入門」(集英社新書)124~125ページより
つまり、「名曲度」「名演度」とも途轍もなく抜きん出て高く、ひとつの場所に満足して留まらず、スクラップアンドビルド実施により絶えず未開の領域にチャレンジし続けた作曲家兼名演奏家のリストが、いかにもの凄いスーパー・スターだったかということですね。
失神したり、号泣したりする聴衆がいるなんて、現在のクラシック・コンサートでは考えられません。
ところで、クラシック界には珍しく、ジャズに勝るとも劣らないくらいチャレンジ精神に満ち、いつも「名演度」の極めて高い感動的な演奏を聴かせてくれる愛知とし子さんによる、多治見市文化会館での恒例のコンサート、今年も新たな展開を期待しております。
ジャズの話題との関連で、遠い学生時代、LPレコードを擦り切れるほど聴き、カセットにダビングして車の中でも繰り返し聴いた、思い出の詰まった秘蔵愛聴盤をご紹介します。
ロココ・ジャズ 
Eugen Cicero (p)
Peter Witte (b)
Charly Antolini (ds)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%BA-%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%B1%E3%83%AD/dp/B00008KKUT/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=music&qid=1298237103&sr=1-2
上記音盤の一曲目、
Solfeggio In C Minor (C.P.E.Bach)
http://www.youtube.com/watch?v=B7C83L6iWJQ

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>「ジャズに名曲なし、名演あるのみ」という先達の言葉
この言葉、これまで何気なく見ておりましたが、なるほどという思いです。
>スクラップアンドビルド実施により絶えず未開の領域にチャレンジし続けた作曲家兼名演奏家のリストが、いかにもの凄いスーパー・スターだったか
そういうことですよね。ちょっとフランツ・リストの意義を見直しました。これから大いに研究したいと思っております。とはいえ、リスト自身の演奏は絶対に聴けないわけですから、研究するにも音盤でリリースされた「型にはまった演奏」でしかできないという厳しさはありますが。
>愛知とし子さんによる、多治見市文化会館での恒例のコンサート、今年も新たな展開を期待しております
またぜひご家族でお出かけください。さらに洗練された舞台をお届けできるようがんばります。
あと、ご紹介のオイゲン・キケロ、いいですねぇ。
残念ながら音盤を所有していないので早速仕入れたいと思います。ありがとうございます。
※なお、MT4といソフトを使ってブログを構築しているのですが、昨日から突如エラーが出るようになりました。1日あれこれ格闘したものの、僕の知識を超えているようで何ともなりません。ただし、エラーが出てもコメントは投稿されておりますので、今後ともよろしくお願いいたします。なるべく早めに復旧できるよう努めます。

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