左手のためのシャコンヌ

先日の講座でとりあげたバッハ熱の余韻が覚めやらぬうちにとカンタータや受難曲、クラヴィーア曲などをいくつか聴いてみる。どこからどういう風に耳を傾けても、西洋古典音楽の源流はモンテヴェルディでもシュッツでもなくJ.S.バッハにつながるのではないかと思えてしまう。それほど崇高で何ものにも代え難い魅力を持ち、何度聴いても飽きない人類の至宝であると断言できる。ゆえに、普段からクラシック音楽を聴く習慣のない方はそれを知らないだけで損をしているように僕は思う。せめてバッハの小宇宙的な要素を汲み取るためにいくつかの代表的な創造物はモノにしたほうが良いのではなかろうか。余計なお世話だが・・・。

無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番ニ短調BWV1004の終曲、「シャコンヌ」にはしびれる。Mさんが「まさに当時のプログレッシブ・ロック」ではないかと形容したが、確かに「前衛的」である。これほどまでに宇宙の「混沌から調和へ」というコンセプトを見事に音化し、不要なものが極限まで削ぎ落とされた「純」音楽を他に僕は知らない。楽曲を分析した解説書を読むと、この音楽の構成が次のように書かれている。
「8小節からなる主題をもとに、257小節に及ぶ長大な30の変奏曲。全体は3部から構成される。第1部は131小節、第2部(中間部)は76小節、第3部は49小節となっている。調性は、第1部と第3部はニ短調、中間部は明るいニ長調。」
バッハの音楽は数学的だといわれる。確かにそういわれればその通りだ。シャコンヌ一つとってみても、その楽曲のバランスたるや驚異的だ。

ブラームス:ピアノのための5つの練習曲集第5番「左手のためのシャコンヌ」
イディル・ビレット(ピアノ)

ピアノの練習のし過ぎにより右手を負傷したクララ・シューマンのためにブラームスがアレンジした「左手のための」音楽。何と愛するクララのために、よりによってバッハのシャコンヌをブラームスは俎上に上げた。ヴァイオリン一挺のための楽曲をピアノで表現しきるのはとても厳しいはずだ。しかし、どんな楽器であれバッハの持つ音楽の「精神性」に変わりはない。ブラームスはあくまで「練習曲」としてリリースしたようだが、観賞用、あるいは演奏会用として十分通用する名編曲である。
そういえばブラームスもきわめて内向的な人間である(と僕は思う)。ただし、バッハが「無境界」であるのに対し、ブラームスは「殻を破りきれていない」。とても人間臭いのだ。そこがまたブラームスの弱いところでもあり、強みでもある。

今夜も学生達が集う。「ES講座」を始めて約1ヶ月が経とうとするが、現実的な成果はどの程度のものなのだろうか?説明会でへこんでしまったり、面接に落ちてショックを受けたり、または1次面接通過などと悲喜交々。講習中に学生諸君には話をしたが、とにかく自信を持つことである。人は生まれながらに各々存在価値を持っており、そもそも「自信」が備わっているものである。早くそのことに気づき、他者評価に振り回されるのではなく、自分の「軸」を確立することが重要だ。

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