クレンペラーのモーツァルト

先日の「転職ワークショップ」にご参加いただいた皆様の反応をみて、世の中には自分の将来に対して不安に思っていらっしゃる方が結構いるものなんだとあらためて痛感した。現在の職業に決して不満を抱いている方ばかりではない。何の問題もないのだが、それゆえに果たしてこのままでいいのかと感じてしまうらしい。要はエネルギーがあり余っているのだともいえる。ならば、仕事以外に目を向けてみるのも良い。ボランティアだってよし。会社外のコミュニティをいくつももち、仕事以外に生きがいややりがいを見つけることは人生を2倍、3倍謳歌するために必須のポイントじゃないかな。

午後、1件の電話。とある教え子が、転職を考えている友人がいるので相談に乗ってあげてほしいという依頼。今のご時世、決して納得のゆく転職は容易くないが、いずれにせよ彼の話を聴いてみないことには何ともいえない。近々来社いただくことにした。

そういえば、若きモーツァルトも職を探してヨーロッパ中を転々とした。いや、「転々」というのは語弊がある。より条件の良い仕事に就くためにあちこち旅をしたといった方が正しい。もちろん天才ゆえ職には困らなかっただろうと誰しも想像しようが、実に世の中それほど甘くない。当時国を治めていたのは大司教。御方が音楽好きならどこでも引く手数多の音楽家も、そうでなかった場合には「天才」も単なるお荷物になってしまう。職など簡単に失ってしまうのだ。その意味ではまったく保障のない世界。晩年のモーツァルトは常に貧乏だったが、ドビュッシーも音楽家として絶大なる人気を誇り、社会的に認知された作曲家だったにもかかわらず、生涯お金には困ったみたい。こちらも安定収入がないから常に将来への不安に脅かされていたようだし(同じように借金癖のひどかったワーグナーなどはひょっとすると未来のことなど糞食らえで、まったく動じなかったように思うが)。天才とはいえモーツァルトもドビュッシーも人の子。食えなきゃ作品も生み出せないわけで・・・。現代なら2人とも相当優遇され、人並み以上の良い生活をできただろうけど(時代の先を行き、同時代には理解されないというのが天才の常だから、どんな時代においても苦労するのかもしれない)。

クレンペラーのモーツァルトを聴いた。一昨日、ノリントンの「魔笛」の後、クレンペラーの「フィガロの結婚」第1幕をかじった。何とも遅く重い足取りがかえって心地良かった。そういう「歩み」を期待して交響曲集を聴くと肩透かしを食らう。特に後期6大交響曲直前の諸曲。

モーツァルト:
・交響曲第33番変ロ長調K.319
・交響曲第34番ハ長調K.338
・交響曲第40番ト短調K.550
・フリーメイスンのための葬送音楽K.477
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団、ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

軽快なアマデウス。といっても決して浮き足立っているわけではない。地に足の着いたまったく動じることのない天才がここに見ることができる。ザルツブルク時代最後に作曲された2曲が何とも素敵。

※すっかり忘れていたが、本日で「アレグロ・コン・ブリオ」がスタートして丸4年が経過した模様。よくもまぁここまで続いたものだと我ながら感心する。


3 COMMENTS

雅之

こんにちは。
クレンペラーの重心の低いモーツァルト、「クラシック音楽」はこうでなきゃ!
というのが本音です。やっぱ最高ですよね。

このゴールデン・ウィークは、何年かぶりに、音楽のことをほとんど忘れて過ごしました。
CDも大量に売却し、身も心も軽くなり、今、じつに爽快な気分です。

ところで、岡本さんもよくご存じのとおり、私は物としてのCDを極めて大切に丁寧に取り扱ってきたのですが、今回売却しようとしたCDの中に、経年劣化で読みとり面に濁りがあり買い取りを拒否されたものが数枚混じっており、少なからず驚きました。劣化したCDは、国内盤、輸入盤ともに、1980年代半ばに製造されたものがほとんどでした。私の心の中で、CD寿命30年説(どんなに厳重に管理してもせいぜい100年)が、にわかに真実味を帯びてきました(特にCDの場合、DVDやブルーレイ・ディスクと違い、レーベル面とアルミの反射層が近すぎるのも気になるところです)。

何千枚のコレクションCDも、その多くは年に一度も聴くことができず、実質的に死蔵に等しくならざるを得ず、やがて子孫に残すまで待たず大半が朽ち果ててしまうならば、狭い我が家の貴重な家族のスペースを犠牲にしてまでも大切に保管し続ける意味などまったくありません。思いきってもっともっと売却して身軽になり、本当に頻繁に聴く少数の愛聴盤中の愛聴盤だけを手元に残そうかと思案しているところです。

参考サイト①
http://allabout.co.jp/gm/gc/51079/2/

参考サイト②
http://blogs.itmedia.co.jp/nagaichika/2010/12/post-b501.html

原発事故以来、プルトニウム239の半減期が約2万4000年とか、高レベル放射性廃棄物の管理が10万年必要とか、悠久のスケールでいろんなことを頻繁に考えていたら、業者の宣伝や評論家の意見に乗せられて、下手をすると犬猫並みに儚い寿命のCDを蒐集する趣味が、つくづくアホらしくなってきました。

音楽は、人と人とを結ぶナマ演奏に限る、尽きる。
そういう確信が、この一か月くらいでますます強くなりました。

「アレグロ・コン・ブリオ」丸4年とのこと、心からお慶び申し上げます。
このブログを愛読することで沢山学ぶことができ、心から感謝いたしております。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
大変ご無沙汰しております。ゴールデンウィーク中はさぞかし音楽抜きの生活をご堪能されたのだろうと思います。実は僕も結構忙しく、じっくりと聴いている暇がほとんどありませんでした。音楽講座の際にドビュッシーの一部の作品を聴いたことと、横山幸雄のショパン全曲演奏の最後5時間をゆっくり聴いたくらいですね。

>音楽は、人と人とを結ぶナマ演奏に限る、尽きる。
そういう確信が、この一か月くらいでますます強くなりました。

横山氏の演奏を聴いてみてもおっしゃるとおりだと思います。それにしてもCDの寿命を考えると蒐集することのアホらしさも一方で考えざるをえないですよね。いつかも書きましたが、大事なCDに限って再生不能になってしまいます。特に80年代の初期のものにはそういうものが多いと僕も感じます。

>思いきってもっともっと売却して身軽になり、本当に頻繁に聴く少数の愛聴盤中の愛聴盤だけを手元に残そうかと思案しているところです。

煩悩との闘いでもありますが(笑)、いや、そのお気持ちよくわかります。
今回の震災については本当にいろいろと考えさせられます。勉強になります。

5年目に入りましたが、引き続きよろしくお願い申し上げます。

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アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » 音楽というものはやっぱり生きているんだ

[…] 例えば少し落ち込んだ時や物事に前向きになれない時にはモーツァルトを聴くと良い。 モーツァルトの音楽だったら基本的に何でも良いと言いたいところだが、そういう時僕だったら何を取り出すか? 意外なことにオットー・クレンペラーの指揮する「後期交響曲集他」(おそらくどの巻を選んでも良いだろう)などはとても陰影に富み、音楽の中に哀しみも悦びも包含され、最終的には「生きていることの幸せ」に気づかせてくれる興味深い音盤だ。 どうにも偏屈なこの指揮者が、モーツァルトを指揮するときには何も考えなかったのか?そんなことはないと思うのだが、ともかくここに収められている演奏はいずれも余計な思考を排し、何も足さない、何も引かないモーツァルトがただただ流れる。そして、そこに安心と満足が感じられる。 […]

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