フルトヴェングラーのマタイ受難曲

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ氏が亡くなった。86歳だったという。
歌曲に決して強いとは言えない僕でも、彼の録音には随分お世話になった。リートに限らずオペラやミサなどの声楽曲の名盤を仕入れると大抵彼の名前がクレジットされていたから自ずと聴く機会も多かった。
僕が初めて彼の歌声を聴いたのは、フルトヴェングラーがフィルハーモニア管弦楽団と録音したマーラーの歌曲集「さすらう若人の歌」においてだった(それも、フラグスタートの歌うワーグナーの楽劇「神々の黄昏」から『ブリュンヒルデの自己犠牲』とカップリングされた東芝エンジェルのアナログ・レコード)。とにかく衝撃だった。繰り返し聴いた。いつの時期からかこのレコードを取り出すときは、どちらかというとワーグナーの方がお目当てということが多くなったが、この「さすらう若人」はいまだに他を圧倒する超名演奏、名歌唱であると信じて疑わない。世間一般でいわれているように理知的でありながら、決して色艶を失わない、僕に言わせれば右左脳のバランスが見事にとれた傑作だと思うのである。もちろんシューベルトやシューマンのリートも後にたくさん聴いた。幾度か実演にも触れた。忘れられないのは89年だったかのサヴァリッシュ指揮N響とのやはり「さすらう若人」。あれは本当に美しい演奏だった。あの時彼は64歳くらいだったわけで、どうもそれ以来時間がストップしてしまっているかのように感じられる(何せ享年86歳のわけだから、立派に天寿を全うされたといって間違いないが、どうもそんな年齢にいっているとは想像できなかったものだから・・・イメージというのは恐ろしいものだ)。

ということで、夜遅くに故人を偲んで宗教音楽でもと、バッハの「マタイ受難曲」を引っ張り出した(予定通り)。巷では決して評判が良いとは言えない録音だが、僕にしてみるとメンゲルベルクのそれに匹敵する、否、優るとも劣らない演奏であり、本当に久しぶりにじっくりと腰を据えて聴いた。

J.S.バッハ:マタイ受難曲BWV244
アントン・デルモータ(福音史家/テノール)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(イエス)
エリザベート・グリュンマー(ソプラノ)
マルガ・ヘフゲン(コントラルト)
オットー・エーデルマン(バス)
ウィーン・ジングアカデミー
ウィーン少年合唱団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.4.14-17Live)

もちろん時代がかったテンポの伸縮の激しい、粘り気のあるとてもロマンティックなフルトヴェングラーらしいバッハである。でも、これは古臭いという感覚とはいえない。この大指揮者の最晩年の孤高の精神が至る所に渦巻き、聴く者をいちいち圧倒する(それに何より本当に実況録音なのかと思うほどほとんど雑音が入らず、見事にクリアーな音が現出するところが素晴らしい)。

ところで、フィッシャー=ディースカウのイエス。ここでも彼の歌は信じられないくらいの安定感をもつ。1925年生まれだから、30歳にも満たない青年がイエスの心情を完璧に捉え歌いこなす様は真に素晴らしいのだが、上手過ぎるほど上手いというのも実に欠点といえるのかも(若い頃から少なくとも技術的には既に完成の域にあった彼の歌唱は、年を経るにつれ深みを増してゆくのだが、実演に触れる数がいかにも少なかったところが今となっては悔やまれる)。
フルトヴェングラーによって見出された、いや、別の見方をすると、マーラーの重要性をフルトヴェングラーに教えた不世出のバリトン歌手の死に際し、ようやくこの「マタイ受難曲」の真価が僕にはわかった気がする。一切の先入観なしに、ただひたすらバッハが認めたひとつひとつの音に集中すること。この「マタイ」、あくまでフルトヴェングラーの芸術に違いないが、イエスを歌うフィッシャー=ディースカウが影の功労者であるようにも今の僕には思えるのである。

そして、涙の終曲が鳴り響く・・・。


10 COMMENTS

雅之

おはようございます。

F=ディースカウは声楽界の革命児でしたよね。彼が歌った歌曲や参加した声楽曲の名盤は数え上げたらきりがないくらいですよね。

ご紹介のフルトヴェングラーのマタイ、おっしゃるとおりだと思います。F=Dの知的なイエスが、指揮者の表現主義的な演奏全体を引き締める役割を発揮しており、私も彼が影の功労者というご意見には賛成です。

F=D数々の名盤中、私がとりわけ印象深かった彼の歌唱に、ベーム指揮盤のモーツァルト「魔笛」
http://www.hmv.co.jp/product/detail/221255
でのパパゲーノがあります。一般には彼のインテリっぽいパパゲーノは自然児らしくなく、ミスキャストと評されることが多いのですが、私は、この曲の裏テーマ(表テーマ?)であっるフリーメイソンについて明確に意識されている歌唱でありセリフであると聴きます。

話は脱線しますが、このところの一連の信仰についての話題から、またフリーメイソンについて考えてみました。

・・・・・・入会資格として何らかの真摯(しんし)な信仰を要求しており、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教(以上アブラハムの宗教)の信徒はもちろん、仏教徒などであっても入会できるが、無神論者、共産主義者は入会できない。たとえ信仰する宗教があったとしても、社会的地位の確立していない宗教(例として新宗教各派)である場合は入会できない。ただし、特定の宗教を信仰していなくても、神(あるいはそれに類する創造者)の存在を信じるものであれば、入会資格はある。これらの信仰を総称して、「至高の存在への尊崇と信仰」と呼ぶ。・・・・・・ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3#.E6.97.A5.E6.9C.AC_2

そのフリーメイソンと、日本の教派神道系の教団 大本(教)の教義とが、やけに似ているんですよね。

今、岡本さんが没頭し、大いに精神的影響を受けておられる合気道ですが、周知の通り、その開祖 植芝盛平は大本(教)の高位の信者で、その精神性を合気道の根幹として取り入れていますし、司馬遼太郎「坂の上の雲」の主人公のひとり大日本帝国海軍中将 秋山真之も、その晩年、霊研究や宗教研究に没頭した際に入信し、教義を研究しています。

「宗教法人大本」サイトより《大本の概要》から
・・・・・・すべての正しき宗教や教えは究極の実在(一つの主の神)から出ていると説く万教同根の真理に基づき、各宗教宗派が大和協力するよう、活発な宗教協力・宗際化活動を行っています。・・・・・・

出口なおや出口王仁三郎は、フリーメイソンと何らかの繋がりがあったかもしれません。

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雅之

参考サイト

大東流と大本教 ―― 合気道の二大支柱
季刊『合気ニュース』95号論説(1993年)より
文 ・ スタンレー・プラニン
http://dou-shuppan.com/aikido/stan004.html

「宗教法人大本」
http://www.oomoto.or.jp/Japanese/about/oshie/index.html
『四大主義の実践によって、人は霊体ともに、天地と呼吸を合わせ、天国的生活に入ることができます。すなわち、四大主義は天国生活の指針です』とありますので、輪廻ではなく天国に行くのが究極の目標ですね(笑)。

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雅之

天人の養成所

「宗教法人大本」より
http://www.oomoto.or.jp/Japanese/about/oshie/mioshie05.html

・・・・・・霊界からみると、人間が現界に生まれてくるのは、天国天人の養成という意味があります。

なぜなら、天国の天人は、現界の人間の善徳が発達したものだからです。

人間は、現界で肉体を通しての生活の中で霊性を発達させ、死後、天国に復活して、今度は天人となって天国をますます円満にしていく活動をすることが、現界に生まれてきた大きな目的なのです。
そのためには、現界での生活の中で、神業奉仕とともに、積極的に身魂みがきに励むことが大切です。・・・・・・

私のように客観的に眺めても、中々いい教えですねぇ。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
ベーム&ベルリン・フィルの「魔笛」は僕も一押しの名盤です。

>この曲の裏テーマ(表テーマ?)であっるフリーメイソンについて明確に意識されている歌唱でありセリフであると聴きます。

なるほど、深いですね。その通りかもしれません。
フリーメイスンの思想は以前から注目しておりましたが、確かに「大本教」と近いものがありますね。
だいぶ前に、岡本天明の「日月神示」を勉強したことがあるのですが、そのときに大本についてもひととおり勉強し、深く感銘を受けたことを思い出します(あくまで情報の上での勉強ですから、実際に総本山を訪れたわけでもなく、まったく信者からははずれるのですが)。
そんな中で、昨年偶然合気道に出逢い、しかも具体的に入門した後になって植芝開祖と大本との密接なかかわりを知りまして、驚いたほどでした。
大本とフリーメイスンの関係、僕も何かしらあるように思います。興味深いテーマですね。というより、先日から話題にしておりますが、宗教というものがそもそも人間が作り出した「概念」そのものですから、源流はすべてつながるのかもしれません。

>輪廻ではなく天国に行くのが究極の目標ですね

そうなんです!輪廻を断ち切って理天に還るというのが究極の目標です。
生まれ変わりについてああだこうだと議論しましたが、それです!
自分の中で矛盾もいっぱいあります。まだまだ勉強不足です。
ありがとうございます。

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アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » フィッシャー=ディースカウのベートーヴェン歌曲集(EAC-87120-22)

[…] ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ氏が亡くなって早1年と少しが経過する。 このところ、彼が著した「ワーグナーとニーチェ」を読み、気づくこと数多。 例えば、ワーグナーとニーチェの関係、すなわち、ある時期からニーチェがワーグナーに心酔するものの10数年後に袂を分かった話は有名だけれど、実は極めて個人的な性格による誤解からそういう結果に至ったこと。 ワーグナーは自分自身、あるいは自身の芸術以外には無関心、相当いい加減な男である。ニーチェからの熱烈な手紙類も多くは残っていなく、おそらく平気で簡単に破棄するほど無頓着。一方のニーチェはかなりの完全主義者。もちろんワーグナーからもらった手紙類は捨てられるはずがない。一概には言えないが、そんな性質、癖の違いが最終的に仲違いした要因になったのだろうことは容易に想像できる。 […]

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