アイノラ交響楽団第9回定期演奏会

予想以上に素晴らしかった。
先月のオーケストラ・ダスビダーニャの時と同質の感激。そこにはジャン・シベリウスの音楽と人となりを愛する人々が集い、10数年かけて培ってきた大いなる音世界があった。
プロフェッショナルにはないアマチュアの力量。1年をかけてこの日のために練習を繰り返す、底流するのはまさに「愛」以外にない。
会場も8割がたは埋まっていただろうか。大作曲家の知られざる佳品からポピュラーな作品までを織り交ぜた果敢なプログラム。開演の鐘の音からアンコールまで、何から何までシベリウス尽くし(厳密にはソリストのアンコールはパガニーニだけれど・・・笑)。いやあ畏れ入りました。

アイノラ交響楽団第9回定期演奏会
2012年4月22日(日)14:00開演
杉並公会堂大ホール
シベリウス:
・2つの厳粛なメロディ作品77~第1曲「聖歌」&第2曲「献身」
・オーケストラのための3つの小品作品96c 騎士風ワルツ
・ヴァイオリン協奏曲ニ短調作品47
~アンコール
・パガニーニ:24のカプリースから第24曲
休憩
・交響曲第6番ニ短調作品104
~アンコール
・劇付随音楽「テンペスト」作品109より「ミランダ」
・アンダンテ・フェスティーヴォ
佐藤まどか(ヴァイオリン)
新田ユリ指揮アイノラ交響楽団

シベリウスがヴァイオリン弾きだとはよく知ってはいたが、こうやって並べられるといかにこの楽器が彼にとって大事なものだったかがよくわかる。作品77は初めて耳にした作品だが、ここから一気に引き込まれる。何より演奏者全てがひとつになろうとしている勢いが音の一粒一粒から如実に感じられる(あ、今日は来て正解だったと直感)。「騎士風ワルツ」なんていうのも初めて。こういう愉悦感溢れる音楽の中にもシベリウスらしい哀愁感が漂うところが素敵。ヴァイオリン協奏曲は・・・、真に素晴らしかった。この音楽はヴァイオリニストの技術に左右されることはもちろん、特に実演で聴く場合にオーケストラとのバランスが悪いと(聴く席にもよる)どうしても興醒めになることが多いのだが、その意味では今日は完璧だった(2階席最前列正面の席を確保したということもある)。佐藤さんの独奏が予想外(笑)に良かった。お見事。フィナーレのティンパニとの掛け合いも耳をダンボにして確認したし、ここまでで相当に満足。それがなんとパガニーニのカプリースまでサービスしていただけたのだから何とも感謝感激(確かに上手かった)。
そして、15分の休憩を挟んで第6交響曲!!とにかく音楽が間違いなく最高。以下はこの音楽を聴きながら率直に感じたこと、考えたこと。

ダスビで聴いたショスタコの衝撃から1ヶ月と少し。あの時も書いたと思うが、ショスタコーヴィチの音楽は極めて人間的なドラマであり、それをオーケストラが渾身の力で魂を込めて演奏していたことに痺れた。今回のシベリウスはまた少し違う。
シベリウスの音楽は「フィンランディア」はもとより、第1、第2交響曲あたりまではあくまで現世、しかも自国という極めて狭いカテゴリーを意識して書かれたいわば民族音楽。それが病を患って後の第3交響曲から第5交響曲までは、意識が自然界、生きとし生けるものに拡がり、自然及び地球讃歌、まさに「ガイア・シンフォニー」と名乗るべきものに進化する。さらに第6シンフォニーを経て第7番、「タピオラ」とコマを進めるにつれ、その精神は太陽系、銀河、その果てまで到達せんとする。交響詩「タピオラ」などはもうブラックホールまで含まれた人間の想像を絶する大宇宙である。

シベリウスが最後の30年ほど作曲の筆をとらず、作品を残さなかったことはいろいろと類推され、様々な学者が様々な見解を述べられているが、僕が思うにもはや書けなかった、いや書く必要がなかったのではないのか。なぜなら宇宙の涯てにはただ静寂のみが残るだろうから。

第6交響曲の4つの楽章が鳴り進むにつれ、そしてフィナーレの最後の音が静かに止んでゆく中で思ったのは「老子」について。

希言は自然なり。故に瓢風は朝を終えず、驟雨は日を終えず。孰れか此れを為す者ぞ、天地なり。天地すら尚お久しきこと能わず、而るを況んや人に於てをや。

ちなみに、開演の鐘の音は、ヘルシンキにあるカッリオ教会の鐘の音で、シベリウスが1912年に作曲したものだそう(プログラムより)。アンコールもお決まりの「フェスティーヴォ」はじめ素晴らしかった。


4 COMMENTS

雅之

こんばんは。
素晴らしいシベリウス体験、良かったですね!!
シベリウスについてのブログ本文に、全面的に共感します。

シベリウスの後期やショスタコの魅力については、これまでいっぱい論じ合ってきましたのですが、本日電車の中で何気なく軽い読書をしていて、「岡本さんの思想」
http://classic.opus-3.net/blog/?p=9708#comments
に関係なく(笑)、「神」について「そうか!」とちょっとした気付きを得ましたので、その文章についてご紹介したいです。

文豪ナビ 夏目漱石 (新潮文庫) から 島内景ニ 「評伝 夏目漱石」よりP156〜
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E8%B1%AA%E3%83%8A%E3%83%93-%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB/dp/4101010005/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1335096276&sr=1-1

・・・・・・けれども、漱石先生の魂は、今でものんびりしていないのではないだろうか。昔から「苦しむ神」という考え方がある。日本の神様は、最初から神様だったのではなく、神様に昇格する前は人間だったというのだ。人間だった時に、貧しさや病気や失恋などで、これでもかという苦しみの連続を体験する。そういう人が、臨終に際して、「自分は〇〇で苦しんで、つらい人生を生きてきた。死んだら、〇〇の神様に生まれ変わって、自分に救いを求めてくるすべての人々を助けてあげよう」と言い残す。そういう人が、神様になるのだ。確かに、生きている時に失脚して絶望にのたうちまわった菅原道真は、死後に天神様という立派な神になっている。
 わが国の近代が、「最初の文豪」と認めた夏目漱石。彼は、そのまま「最大の文豪」となった。日本人は、ヨーロッパの文明諸国に追いつき追い越すために、がむしゃらに近代化路線を突っ走った。機械文明と資本主義は発達したが、人間の心や魂の世界が置き去りにされてしまった。
 近代化が見捨てて蹂躙した「心の世界」を、わが身に引き受けてくれる人。キリストが人間たちの罪を引き受けて十字架にはりつけになったように、近代化の弊害をどこまでも苦しんでくれる人。それが、「文豪=苦悩する心弱き人」に与えられた役割だった。漱石は、まさにそれがぴったりだった。そして、苦悩の最大値に達して壮絶な死を遂げたことで、「文豪=苦悩する近代人を救済する神様」へと変貌した。・・・・・・

そうか!!
「文豪=苦悩する近代人を救済する神様」
 ということは、
大作曲家もまた、「苦悩する近代人を救済する神様」ではないですか!!!

私にとっては、シベリウスもショスタコーヴィチも、
命の次に大切な、れっきとした「神様」なのです。

夏目漱石が「こころ」を執筆中の1914年にシベリウスは交響曲第6番を着想し、漱石が未完の最高傑作「明暗」を残し病死した1916年12月の6年後である1922年秋〜23年1月、シベリウスは第6交響曲を書き上げました。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
いやあ、予想以上でした。
ダスビとはまた違った印象ではありましたが、素晴らしかったです。
こちらも年に1度ですが機会ありましたら是非。ちなみに来年は第7番ほかの予定だそうです。

>「文豪=苦悩する近代人を救済する神様」
 ということは、
大作曲家もまた、「苦悩する近代人を救済する神様」ではないですか!!!

なるほど!!おっしゃる通りですね。
勉強になります。

漱石とシベリウスにも意外な関連がありそうです。
歴史を横軸で見てみると面白い気づきが多いですね。
ありがとうございます。

返信する
アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » アイノラ交響楽団第10回定期演奏会

[…] ジャン・シベリウスの真価は実演でないと決してわからない。 昨年に引き続き、アイノラ交響楽団の定期演奏会に訪れ、後期の(以後彼は30年も存命だったわけだから晩年とは言えない)作品群を堪能した。このアマチュア・オケは想像以上のパフォーマンスをいつも創出する。金管や木管のソロなど相当に上手い。それと、アンサンブルも多少の乱れはあるものの、そこは団員の作曲家への「愛」がカバーしているのか、いささかも気にならない。真に素晴らしい。年にたった1度の定期だが、この1回にかける指揮者と奏者の意気込みが並大抵でなく、音楽の一音一音からそのことが感じられることがある意味脅威。そして、シベリウスのほとんど舞台にかけられる機会のない作品までもがこうやって実際に耳で、生で確認できることが何より嬉しい。 […]

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む