自分の「居場所」を見つけた時人は俄然輝きを増す

自分の「居場所」を見つけた時人は俄然輝きを増す。
そして、その「居場所」というのは実は随分以前からわかっていたことで、自分自身の認識が甘いだけでそこがそうだったことに気づかなかった(あるいは認められなかった)ということが多い。それは第三者には非常によく見えること。
個人が自律的に生き、同じ目線で共生するというのが理想の生き方だと僕は考えているが、そこに必要なのは「勇気」なんじゃないかと思う。この「勇気なる徳」も誰もが生まれながらに持っているものだが、長年の経験や環境に左右され「不安」が増長し、正当な役目を果たしていないケースが多い。身体がある以上自己防衛というのは必須の本能だが、現代はどうもそれが過剰になり過ぎている気もする(マスコミが様々な危険をニュースにして煽るものだから、余計にそうなっているというのも事実だが)。

小澤紗来の初のソロライブに出かけて、とても偉そうな言い方だけれど、本当に成長したなという感を強く持った。ともかく一人ですべてをやってしまおうという行動そのものにまずは拍手を贈りたい。そして、ひとつひとつの楽曲の持つクリエイティブなエネルギーはもちろんのこと、彼女の奥底に潜む才能の一端を垣間見た、そんな気がした(決してお世辞でも何でもなく)。

自力で生きる部分と、他人と協働で生きる部分と。それがやっぱり重要だ。
何だか今日のライブに触発されてヴェルヴェッツを聴きたくなった。それも、彼らの残したアルバムの中で最も前衛的で勇気に満ちた傑作を。

The Velvet Underground:White Light / White Heat

Personnel
Lou Reed (vocal, guitar, piano)
John Cale (vocal, electric viola, organ, bass guitar)
Starling Morrison (vocal, guitar, bass guitar)
Moureen Tucker (percussion)

アンディ・ウォーホールの呪縛(?)から逃れ、ヴェルヴェッツが本来の力を縦横に駆使して創った問題作。よって、抒情的な側面が完全に影を潜め、おそらく万人には受け容れ難かったであろう混沌とした聴きにくさもあわせもつ。特に、ジョン・ケイルの暴力的なヴィオラ・プレイが圧巻で、ほとんど雑音としか聴き取れない瞬間があるというのも醍醐味。
ルー・リードのヴォーカルも徹底的にはじける。まさにこれこそがヴェルヴェッツの4人が個性を大事にしながら、共に生きた証。
この音盤を聴きながら、クリエイターとして大成する最大のポイントは常識外れの勇気なんだとあらためて確認した次第。

名作“Sister Ray”、そして“What Goes On”サード・アルバム所収)を髣髴とさせる“Here She Comes Now”!!!


9 COMMENTS

雅之

おはようございます。

ブログ本文を読んで、久しぶりに鳩山総理の所信表明演説を思い出しましたよ。

・・・・・・先日、訪問させていただいたあるチョーク工場のお話を申し上げます。
 創業者である社長は、昭和三十四年の秋に、近所の養護学校の先生から頼まれて二人の卒業生を仮採用しました。毎日昼食のベルが鳴っても仕事をやめない二人に、女性工員たちは「彼女たちは私たちの娘みたいなもの。私たちが面倒みるから就職させてやってください」と懇願したそうです。そして、次の年も、また次の年も、養護学校からの採用が続きました。
 ある年、とある会でお寺のご住職が、その社長の隣に座られました。
 社長はご住職に質問しました。
「文字も数も読めない子どもたちです。施設にいた方がきっと幸せなのに、なぜ満員電車に揺られながら毎日遅れもせずに来て、一生懸命働くのでしょう?」
 ご住職はこうおっしゃったそうです。
「ものやお金があれば幸せだと思いますか。」続いて、
「人間の究極の幸せは四つです。
愛されること、ほめられること、役に立つこと、必要とされること。
働くことによって愛以外の三つの幸せが得られるのです。」

「その愛も一生懸命働くことによって得られるものだと思う」、これは社長の実体験を踏まえた感想です。

 このチョーク工場は、従業員のうち七割が「障がい」という「試練」を与えられた、いわば「チャレンジド」の方々によって構成されていますが、粉の飛びにくい、いわゆるダストレスチョークでは、全国的に有名なリーディングカンパニーになっているそうです。障がいを持った方たちも、あるいは高齢者も、難病の患者さんも、人間は、人に評価され、感謝され、必要とされてこそ幸せを感じるということを、この逸話は物語っているのではないでしょうか。

 私が尊敬するアインシュタイン博士も、次のように述べています。

「人は他人のために存在する。何よりもまず、その人の笑顔や喜びがそのまま自分の幸せである人たちのために。そして、共感という絆で結ばれている無数にいる見知らぬ人たちのために。」
・・・・・・第173回国会における鳩山内閣総理大臣所信表明演説より
http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/200910/26syosin.html

しかし、鳩山元首相は、結局日本人を幸せにすることができませんでした。

今の日本人の悩みは、詰まるところ経済の問題に行き着くのではないでしょうか。

勇気を持とうが持たなかろうが、軸がぶれようとぶれなかろうと、バランスを取ろうが取るまいが、優柔不断であってもなくても、多くの人々はそれ以前の問題であり、「今日、明日飯が食えるか」「自分は食いっぱぐれないだろうか」という問題で日々汲々とし悩んでいる日本人が、じつは圧倒的多数なのです。岡本さんの周囲は富裕層ばかりであり、そういう人がいないので、ご理解いただけないかもしれませんが・・・・。

>自分の「居場所」を見つけた時人は俄然輝きを増す。

自国の「居場所」を世界の中で見つけた時、その国は俄然輝きを増します。
今の日本は、世界の中で「居場所」を見失いつつあります。マクロの問題が、個人レベルのミクロの問題よりも遥かに大きいのではないでしょうか。今の日本は「坂の上の雲」の時代ではなく、国全体がタイタニック状態寸前です。一等席の人は「この船は絶対に沈まない」と信じ、まだ全然危機感がないのでしょうが(いざとなったら海外に脱出しますか・・・笑)。

資源のない日本は、戦後技術立国として世界に君臨し、国を富ましてきました。
岡本さんのように、その部分にはあまり光を当てず、精神論だけで民を幸せにしようとするのであれば、皆が食うに困らず、働き口を確保できるきちんとした裏付けが無ければ、鳩山元首相と同じく「机上の空論的愛」になるだけではないでしょうか。

「来世に行けば、皆幸せになるのさ」が結論ならば、何をか言わんやです。

抽象論と具体論の、それこそ「バランス」が大切だと思いますよ、もう絶対不可欠。
どっちが欠けても、人は現世では永久に幸せにはなれません。

「想 -new love new world」 福山雅治

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
おっしゃるとおりです。

昨年の秋から「システム思考ワークショップ」というものを定期的に開催しています。
SCMの問題をビールゲームを通じて体感するものですが、毎回非常に大きな気づきを得ていただいています。
何回か実施しているうちに気づいたのですが、すべてのシステムにはそもそも問題が必ずあるということです。
そして、そういうシステムの中で人間は生きている。そのことをわかった上で全体と部分の最適化をいかにするかが重要だということがわかりました(個人の力も当然限界があります)。
国もそうですし、世界という視点からも、もはや一国が、それも一人の政治家が一人の力で何とかできる状態ではありません。問題のあるシステムは一旦壊してしまうべきなんでしょうが、これもそう簡単な問題ではないです。

どうすべきなんでしょうね?
ちなみに僕の場合は雅之さんのいう決して机上の空論的精神論でない精神論を皆様に提示することで変革のきっかけを得ていただこうとしているのですが、まったく力不足です。やっぱり、抽象論と具体論の、それこそ「バランス」ですかね。

ところで、僕の周囲は決して富裕層だけではありません。
貧乏学生もおります。シンガーを目ざして頑張る子もいます。

そんな中、ひとりの少女が成長してゆく中で、自分のやりたいことを見つけ、そしてゆっくりではあれひとつひとつチャレンジし、形にしてゆく姿を見て感じたことをブログ本文に昨日は書きました。彼女はまだまだ貧乏ですが、幸せそうです。
・・・あ、でもこれを指して「僕の周りは富裕層が多い」ということでしょうか?そういう観点から言えば、本当に困っている人は周囲に少ないかもしれません。ここまで書いて気づきました(汗)

確かに机上の空論的精神論じゃどうしようもないですね。

>抽象論と具体論の、それこそ「バランス」が大切だと思いますよ、もう絶対不可欠。
どっちが欠けても、人は現世では永久に幸せにはなれません。

はい。ご指摘ありがとうございます。

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雅之

もう少し具体的に踏み込みましょうか。

まず、いざとなったら親の経済的援助が受けられる境遇かどうかということが問題になります。代々破格の資産家である鳩山家は問題外としても、岡本さんは当然その面で何の心配もないでしょうし、私は岡本家とは比べようもないくらい貧乏ですが、それでも一人っ子なので恵まれているほうだと自覚しています。

そもそも、そのスタートラインこそが、親にまったく期待できない人からすればフェアではありません。卑怯だと思われても仕方がないでしょう。

それと、岡本さんは独身で、しかもお子さんがいらっしゃいません。なので、ご自分の人生だけを計算すればよいわけです。

ところが私は、私たち夫婦の老後までは何とかなりそうですが、仮に高三息子と中三娘が失業した場合、将来をずっと支えてやり続けられる自身はまったくありません。学校を出て運良く上手く就職できればよいのですが、昨今の就職事情では、仮に留学したり大学院を卒業したって、就職できない若者はゴロゴロいますし、4年後や7年後、それ以降の経済情勢による雇用状況・雇用環境なんて予測不可能です。就職しても職場が自分に合わず、辞める可能性もあるし、2人とも血のにじむような努力して能力やスキルを身に付けたって、飯が食えない可能性は充分にあるのです。
ましてやその先の結婚のことまで考えると心配で心配で・・・。

人の親になるということは、とんでもなく重い責務を背負うことになるということですが、それは人の親になり、自分で子育てをし、子供がある程度成長してみて、初めてしみじみと実感できることなのです。

失礼ですが、私の息子の言動は、私より岡本さんの言動に似ていることがありハッとすることが日常よくあります。人の親の気持ちと言ったって、頭で理屈を理解しているだけだと思うし(鳩山演説と一緒)、これはそういう境遇でない人からすれば当たり前なのです。私もちょっと前までそうだったのですから・・・。

さらに、私や妻の親も高齢になってきており、近い将来、介護の問題からも要領よく逃げることはできそうにありません。これを責任を持って対処するのも、子として、いや、人の道として当然でしょう。

でも、一方で私は、岡本さんの実業家としてのご苦労は何も知りません。

人はその境遇になってみて初めて実感できることが山ほどあります。藝術に対する感じ方が、その人の年齢と境遇により変わっていくのも、寂しいことだけれど至極当然だと痛感するばかりです。

真に自分の「居場所」を見つけるということは、どこかでとんでもなく重い責任を背負うということでもあるのです。

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岡本 浩和

>雅之様
まったくそのとおりですね。
幸か不幸か現在僕は独身で子どももおりません。
しかしながら、これは以前から感じていることなのですが、子育てという人としての最大の仕事をしないまま人生を終えてしまうのは問題だと思うのです。
で、遅まきながら40歳を越えてから結婚いたしましたが、僕の至らなさも手伝って破局を迎えてしまいました。
とはいえ、僕自身はまだまだ人生これからだと信じておりますので、新しいステージについて諦めているわけではありません。
いずれにせよ、他者の立場を理解するには自分が経験しない以上できないことですね。

>真に自分の「居場所」を見つけるということは、どこかでとんでもなく重い責任を背負うということでもあるのです。

これについては本当にそうだと思います。
どんな生き方にせよ、まさに全責任を負うこととイコールです。
ありがとうございます。

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雅之

岡本さんの人生は、まだまだイケイケで攻め続けなければなりませんよね。いいですねぇ。

私は50歳になり、そろそろ攻めと同時に守備固めし、さらには守り重視の人生に移行する必要性を強く感じています。

人間、歳をとると段々保守的にならざるを得ない場面が増えます。

原発再稼働問題だけは別ですが・・・。

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岡本 浩和

>雅之様
いやいや何をおっしゃいますか!
少なくともこのブログでの雅之さんのコメントは「攻め」ですよ。
毎回僕はたじろいでしまいますもの・・・。
守りに入るのはまだ早いんじゃないでしょうか?(笑)

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るみ

サキが自分の居場所を見つけて輝き出したんだね。すっごく嬉しい♪七夕、恵那でもサキのライブやります。今からとっても楽しみです。サキの才能がこれからどんどん開かれていくのも楽しみだよね。本当に良かった。嬉しいな。

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岡本 浩和

>るみ
おひさ。
そう、すごく良かった。
時間をかけて人は進化してゆくもんだね。
恵那でもきっと良いライブになるでしょう。

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アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » ラジオのように

[…] 1969年にリリースされたわずか34分ほどのこのアルバムを繰り返し聴いて思ったこと。 60年代末のあの当時の空気感がそのまま読み取れる、当時としてはおそらくとても前衛的で、賛否両論、いや、それどころか正面からはきちんと理解した人はどれくらいいたのだろうと思わせる代物(ヒット作だというけれど)。例えば、ラスト・ナンバー”Lettre a monsieur le chef de gare de la tour de carol”などはまんまThe Velvet Undergroundの1枚目や2枚目に収録されていても違和感のないようなもので、攻撃的なんだけれども柔和で、重心は低いんだけれど空気のようで、そんな「矛盾」を孕んだ傑作(だと僕は思う)。 それと、タイトル・ナンバー。 […]

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