何やらパラダイム・シフトの様相。視点が変われば、捉え方が変われば、こうも違って聴こえるものなのか?
いかにも延々と続く、いつ終わるとも知れぬ音楽に、ただひたすら耳を傾けて没頭してみるのも乙なもの。少しばかりの心境の変化により「器」が大きくなる。緩やかに、しかし決然と流れる音の塊は、塊と言えど決して堅固なものでなく、人の「心」を感じさせる柔らかな印象を与えるものに形を変える。これこそ受け手側の感覚の変化といえるのか。
善悪、陰陽を超越し、すべてをひとつとしてとらえる、いわゆる「禅の精神」につながる音楽の造り。禅を探究したチェリビダッケが晩年どの域にまで到達していたのか知る由もないが、シューベルトの「ザ・グレート」シンフォニーを聴く限りにおいて、禅とは「ひとつであること(単)」を示すという、その字が表す通りの「真髄」をチェリ翁はきちんと捉えていたかのように思える。こんなにも素直にこの音楽が心に染み渡ったことは珍しい。
人生とは、来る日も来る日も「同じこと」の繰り返し。しかしながら、その「同じこと」の繰り返しの中に常に微妙な変化があり、その変化を上手くとらえて楽しめる心が大切だと僕は考える。一体自分が何のために存在するのか?それには生きる意味を思い出すこと。
シューベルト:交響曲第9番ハ長調D944「ザ・グレート」
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(1994.2Live)
あまりに巨大だ。しかし決してもたれることはない。
チェリビダッケのこのシューベルトの中に観るものは、「永遠」であり、「現在」。刻々と変化する色彩の妙と音の伸縮から生まれる見事な調和。それは、限りなく遅いテンポの中であるがゆえのもの。時にまるで「天啓」の如く響く瞬間があるが(特に、いつまでも続くように思える第2楽章やフィナーレにその感あり)、多分実演で聴いた者にしかわからない、つまり1994年2月のとある日にミュンヘンのガスタイク・ホールに居合わせた聴衆だけが感じることができた一期一会の「時」だっただろう。
深夜に「ザ・グレート」というのも近所迷惑だろうと考えたが、どうにもたまらず小音量で耳にする。それでも「伝わる」恐ろしいまでのエネルギー・・・。
チェリビダッケの音楽は、特に晩年のものは「考え過ぎている」ような気がして、これまであまりちょくちょく聴く気にならなかったが、「音の缶詰」から「実際の音楽」を想像し、「感じてみる」と大きな発見がある。
さて、あまり深刻にならず、ただ音に浸ってみようか。
実に素晴らしい・・・。
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