タルコフスキーの「ノスタルジア」

久しぶりに「ノスタルジア」を観た。
いつ観てもタルコフスキーの映像美に舌を巻く。ふと気づいたシーン。
映画のちょうど真ん中あたり、ゴルチャコフとドメニコが廃屋で語るところ。壁には「1+1=1」の額装された文字が。つい見落としてしまいそうな場面だけれど・・・。

タルコフスキー映画には必ず「水」というものが大きくクローズアップされる。
「私は水がものとして好きなのです。それはまず、水が、一般的に言っても、謎めいた物質だからです。・・・問題は水がとてもダイナミックだということです。水は動きを、深さを、変化や色彩を、反映を伝えます。水は地上で最も美しいもののひとつです。水より美しいものは存在しません。水の中にその姿を映し出すことのなかった現象は、自然の中にはひとつとして存在しません。」

老子にあるように、水はどんな器にも自在に適応可能だ。そして常に低い方に流れる。また、時に大変なパワーを持つ。
「1+1=1」が表すのは何も変わることはないという真理のことか。自然に存在するものはそもそも「完全」であるということ。その代名詞としての「水」をこういう数式で書き表したのかも。

「ノスタルジア」
監督:アンドレイ・タルコフスキー
脚本:アンドレイ・タルコフスキー
音楽:ベートーヴェン「交響曲第9番」、ヴェルディ「レクイエム」、ドビュッシー、ワーグナーほか
オレーグ・ヤンコフスキー(アンドレイ・ゴルチャコフ)
エルランド・ヨゼフソン(ドメニコ)
ドミツィアナ・ジョルダーノ(エウジェニア)
パトリツィア・テレーノ(ゴルチャコフの妻)
デリア・ボッカルド(ドメニコの妻)
ミレナ・ヴコティッチ(清掃婦)
1983年カンヌ国際映画祭創造大賞、国際映画批評家賞、エキュメニック賞
(1983年イタリア映画)

「ノスタルジア」というのは、異郷に立った者が故国に対して感じる郷愁のことをいう。しかし、そういう外的なものをタルコフスキーが表現したかったのではないと僕は考える。本当の自分、ありのままの自分、それはひょっとすると、誰とも分け隔てなく、天真爛漫で、「今」しかなかった「あの頃」へのノスタルジーではないのか。
タルコフスキー自身が語った言葉によると、この映画の重要ポイントは次の2つらしい。
第一は、わかり合うことなしに、一緒に生きることはできないということ、
第二に、相互理解の必要性に関わる問題
やっぱり、だ。物心ついたあの頃は、「ひとつ」でつながっていた。そんなことは意識していなかったけれど。

信仰の対象はどの時代もどんな場所でも常に「神仏」であるが、それは誰しもが「ひとつになる」ことを求めているということと同義。頭で考えたらば、最後のドメニコの演説と行動は気狂い沙汰だ。しかし、この言葉は重い。

自然を観察すれば人生は単純だとわかる。原点へ戻ろうではないか。道を間違えた場所まで戻るのだ。水を汚すことなく根源的な生活へ戻ろう。
愚かな人間よ、君たちが蔑む愚かな者から「恥を知れ」と罵られる。
ここで音楽を・・・。

そして、ドメニコは灯油をかぶって焼身自殺を図る。
同時に、ベートーヴェンの第9交響曲「歓喜の歌」からサビの合唱が・・・。

歓びよ、美しき、神のきらめき、
楽園よりの乙女よ
われら火の如く酔いしれて
ともに汝の天の如き聖堂におもむかん。
(渡辺護・訳)

人は誰だって素朴で純真だったあの当時の「自分」に戻りたいだけ。
そういえば、タルコフスキーも生きていたら今年80歳になっていたんだ。想像し難し。

7 COMMENTS

みどり

こんにちは。
相変わらず好調ですね。「スペイン素描」の冒頭には驚きましたが。
何かおありだったのかしら?とか余計な心配を…(笑)

松岡正剛氏の千夜千冊『アンドレイ・タルコフスキー』(P・グリーン著)の
抜粋ですが、

 空しさとは何か。古代和語では「実なし」であり、「身なし」。ヨーロッパでは「ヴァニタス」である。それをタルコフスキーは知り抜いていた。自分自身を忘れることによってのみ獲得できるような何か。それがノスタルジアである。タルコフスキーは、そこに犠牲と償い、混沌と虚無がともなうことを知っていた。
 タルコフスキーは「言葉によって失うもの」と「沈黙によって失うもの」の両方を映像に託したのである。言葉にならないものを映像にしたのではない。そんなことはだれでもやっている。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0527.html

私は松岡正剛氏の文章を読むと、草木一本生えていない地平を見渡す
ような気分で「あぁ、ごめんなさい」と思ってしまうことがあって。
「言葉を使い熟す」ことへの憧れと諦めの両方を感じるからでしょう。

>わかり合うことなしに、一緒に生きることはできない

というのは、「わかり合えなくても一緒に生きていかなければならない」
からこそ、そこで相互理解が必要になるのだと私は思います。
互いに理解することは難しくても、そのための努力は惜しまず続ける。
たとえそれが理解に至らずとも、それをこそ理解することだと。

返信する
岡本 浩和

>みどり様
こんばんは。
なるほど、です。
松岡さんはその博識ぶりに惚れ惚れするほど愛読しておりますが(といってもすべてを読んだわけではないので、今回の抜粋記事も初めて読むものです)、言い得て妙ですね。

>互いに理解することは難しくても、そのための努力は惜しまず続ける。
>たとえそれが理解に至らずとも、それをこそ理解することだと。

はい。
タルコフスキーもおそらくそれを表現しようとしたのでしょうね。

返信する
neoros2019

これは5年に1回ぐらいの周期でストーカー、鏡とともに鑑賞します
特にノスタルジアは この世紀に残る唯一の究極の映像作品ですね

返信する
岡本 浩和

>noeros2019様
「ストーカー」、「鏡」も傑作ですね。
というかタルコフスキーの作品はいずれも人生において都度繰り返し観るべき作品群だと思います。

返信する
アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » I Pooh:Un Po’del Nostro Tempo Migliore

[…] 久しぶりにイ・プーを聴いた。 冷たい春雨が過ぎ去って、空気が澄んで落ち着いた黄昏時、どうにもノスタルジックなイタリアのロック音楽が恋しくなった。 そういえばタルコフスキーの「ノスタルジア」の舞台も北イタリアだったが、どうして彼の地はあんなにも哀愁に満ちるのだろう・・・。 […]

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む