1965年頃からジョン・コルトレーンは、他の追随を許さない「神の領域」に足を踏み入れていったのだけれど、例えば1961年の有名なヴィレッジ・ヴァンガードでのセッションを聴く限り、この時からすでにコルトレーンはコルトレーンで、もちろんそれはエリック・ドルフィーの影響も多分にあると思われるが、10数分を越す即興で繰り広げられるパフォーマンスは都度異なり、実に刺激的である。
ここには革新がある。一方で、過去に積み上げてきた、先人から学んできたスタイルを疑いなく踏襲するという保守性も見られる。そう、51年前のちょうど今頃の時期にニューヨークで展開された数日間の演奏にこそ僕は「神」を感じる。
「無調」に走ったトレーンを、エルヴィン・ジョーンズもマッコイ・タイナーも見捨てたのか?確かに同じグループで活動する以上各々が越えてはならない境界線もあったのだろう。でも、コルトレーンは生き急ぐかのように新たな世界に突き進んでいった。わずか数年の間にコルトレーンの内側には何が起こったのか?
やっぱり、エリック・ドルフィーの存在だろうか・・・。
僕はジャズ音楽については決して詳しいとは言えない。コルトレーンについても世間一般の人々が知っていることを知っているくらいだ。ましてやドルフィーとなるとほとんど無知。しかし、じっくりと当時の演奏を聴くとドルフィーの方が先行し、それに負けじ劣らじとコルトレーンが後を追い、最終的につながってゆく様がみてとれる。
ドルフィーが1964年に急逝し、コルトレーンはドルフィーの魂までも自身に取り込もうとしたのでは。そして、結果的に耐え切れずオーバーヒートすれすれに・・・。
これは僕の勝手な妄想。ただ、この音盤を聴いて考えたこと。
John Coltrane:The Complete 1961 Village Vanguard Recordings Disc 3(1961.11.2&3Live)
“Chasin’ the Trane”
“Greensleeves”
“Impressions”
“Spirituals”
“Naima”
“Impressions”
Personnel
John Coltrane (ss)
Eric Dolphy (b cl)
McCoy Tyner (p)
Jimmy Garrison, Reggie Workman (b)
Elvin Jones (d)
Ahmed Abdul-Malik (oud)
1997年7月発行の「ジャズ批評」92号はジョン・コルトレーン特集である。そこにキーパースンとしてのマッコイ・タイナーのことが書かれてある。
マッコイのジョンに対する音楽的人間的忠誠心は計り知れないものだったそうだが、一方で彼は自己にも忠実だったのだと。自分が目指すべき道をあえてその時点で「選んだ」ということだ。そして、ピアニストとして調性のある中でのアドリブ・インプロヴィゼーションを彼は追究してゆくことになる。とはいえ、ジョンから受け継がれた精神性は変わることなく、「神と愛とを信じることでインスピレーションを得ること」を座右の銘として活動を続ける。
明日、ブルーノート東京にてマッコイ・タイナー・トリオのセッションを聴く。
果たしていかに・・・。