フランツ・リストの作品が全貌を把握しにくいのは、彼が様々なジャンルに作品を残したことと、それにも増して一つの作品を幾度も推敲した結果、多くの異稿が残されたことが大きな要因になっているように思う。しかし、本人にとっては後世の聴き手のことなどはどうでも良かった(おそらくそんなことは考えてもいなかっただろう。録音機器が発明されて世界中の人々に繰り返し何度も聴かれるとは)。それに、そもそも音楽作品というものが「時間芸術」でその場で消えてなくなるものだということと、まったく同じ演奏を二度と再現できないことを考えると、そもそも決定稿と称する楽譜に拘るのもどうなのだろうと疑問を感じなくもない。
現代においてはクラシック音楽ジャンルだけどういうわけかオリジナルというものに拘る。作曲家がそのときにたまたま決定としたものがスコアという形で残されているだけなのに。リストの例を見てもわかるように、時間が経てば、あるいは作曲家の気分によって細かい部分は変化するものだし、音楽というのは本来が多分に「即興」という要素をもつものなのだから(そのことはポピュラー音楽の世界では当たり前になっている)、そのあたりはもっと鷹揚に考えるべきだ、その方がクラシック音楽界もより裾野が広がってもっと盛り上がるだろうにと僕は常々思う。
ロック音楽でもジャズ・ミュージックでも、ライブ演奏においては必ず即興パートがあること、場合によってはほとんど別の音楽としか思えないパフォーマンスも多々出現すること、これこそ「音楽を聴く、あるいは演る」醍醐味といえるのではないのか。
昔、初めてキース・ジャレットのソロ演奏を聴いて驚いた。
どこに向かってゆくのか本人もわからないまま最初のメロディが奏でられる。連綿と音楽が無限に続くかのように綴られ、聴き手はものの数十秒で彼の生み出す音楽の釘付けになっていることに気づく。時に足を踏み鳴らし、時に唸り声をたて、舞台の上でたった独りピアノと格闘する様。それは音源を聴くだけでも容易に想像できることなのだが、当日その場に居合わせた観衆だけがまさに「いまここ」を体感できた。そのことを考えるにつけ羨ましさとその時代にその場所にいてその世界に興味をもつことが許されなかったことに無念さを僕は感じるのだ(そのことはクラシック音楽の場合でもそう。例えば1930年代のヨーロッパに生きていたらばフルトヴェングラーやワルターやクナッパーツブッシュの実演に触れることのできた、その可能性はあったはずだから)。
Keith Jarrett:The Köln Concert(1975.1.24Live)
Personnel
Keith Jarrett (piano)
いつまでも色褪せない実況録音。しかし音盤で聴く限りのこの感動は当日の興奮の焼き直しに過ぎない。真の感激は、1975年1月24日という日に、ケルンのオペラ座に居合わせたおそらく数千人の聴衆にだけ与えられた神の恵みのようなものだ。これこそ音楽をする喜び、音楽を聴く愉しさ。そして人と人との出逢い、コミュニケーションがまさに一期一会であることを喚起する。
しかし、時間や空間が無限であるのに対し、音楽は有限だ。始まりがあり、終わりがある。そして閉じられた空間の中でしか体を為さない。とはいえ作曲家のひらめいた音楽は本来無限。その無限の楽想を楽譜に焼き付けたお蔭で有限になるというだけ。だから、楽譜の存在しない(誰かが耳コピして書き下ろしたスコアがキースの承認の下世紀で出版されてはいるけれど)一夜の即興コンサートこそが真の音楽体験だと言ってもそれは言い過ぎでないのでは?(明らかにそれは言い過ぎでしょう・・・笑・・・久しぶりに興奮して発言が過激になってるのか?)。
結論。やっぱり音楽は実演に触れ、その場で共に感じねば・・・。
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