
ショスタコーヴィチの最後の弦楽四重奏曲について、以前僕は次のように書いた。
ただしこの音楽は、個人的には6部構成の単一楽章の作品として理解したいところ。バッハなど古の作曲家が6つの作品を一つの単位として考えていたことはよく知られているが、ありきたりの観点から述べると死を目前にした作曲家が、過去の天才たちに追随せんと形を整え、しかも余分な、不自然な揺れを排除しつつ、世界が一つになることを永遠の夢としたものを創造しようとしたとも考えられなくはない。
果たしてその思いは、今も変わらない。
例によって亀山さんの解釈が興味深いと思った。
理由は一つ。個人の声を完璧なまでに封殺し、個性をどこまでも抹消することを要求したソヴィエト政治の歴史へのプロテストであるということ。
~亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P465
あくまでもこの作品はショスタコーヴィチ個人の、実にエゴイスティックな音楽なのだと亀山さんは断言する。
最終楽章はもはやだれの音楽でもない。エピローグとは、全能の神のみが書きうるものである。もしそれが作曲家自身であるとするなら、この弦楽四重奏曲全体の意味は根本から変わることだろう。これは、みずからをも含めたすべての死者に捧げられた音楽ということになる。ヴィオラのトレモロによる終わりは、そのことを暗示してもいるようである。スターリンによる「大テロル」が猖獗をきわめる1938年にハ長調の第1番で始まった36年間にまたがる弦楽四重奏曲の歴史はこうして閉じられた。変ホ短調という調整の選択を見ても、ここから先へは一歩も前に進みようがなかった。
~同上書P466
これ以上先のない、すなわち6つの♭で書かれた弦楽四重奏曲こそ体制への最大の、最後の反抗だったということだ。
演奏そのものは80年代のものに及ばないが、最初と最後の弦楽四重奏曲を組み合わせる方法に感激する。
(オリジナル四重奏団の最初の録音時はまだ作曲されていなかったので当然録音はない)
(何はともあれすごい音楽だ)
ボロディン・カルテットのショスタコーヴィチを聴いて思ふ
物に本末あり、事に終始あり。
(大學)
恩に報いる春分に、本と末を意識し、感謝を忘れないことが大切だと思わせてくれる貴重なアルバムに思いを馳せる。
