カレンの歌というのは母性を喚起する。聴いていてとても切なくなる。もう20年以上前にリリースされた大全集を昼下がりにまとめて聴いていた。
そして、遇々、手元にあったC.G.ユングの「元型論」(林道義訳)をひもといていて、なるほどカーペンター兄妹の内側にあったのは「母親コンプレックス」だったのではなかったかと想像した。
すなわち母親コンプレックスは娘のばあいには女性本能を過度に促進するか阻止するかのいずれかであるが、しかし息子のばあいには不自然に性的になることによって男性本能を傷つける。
P112
娘の母親コンプレックスはいわば女らしさの肥大または萎縮を引き起こす。
P113
そうした母親によって娘に引き起こされるコンプレックスは、必ずしもつねに母性本能の肥大であるとは限らない。逆に娘の側ではこの本能が完全に消えてしまうことがある。その代りに代償としてエロスの過剰が現れ、そこから必ずといってよいほど父親との近親相姦関係が生れる。
P114
女性の母親コンプレックスにおいてエロスが高まらないと、母親との同一化が生じ、女性独自の営みが衰えていくことになる。
P116
こうした女性が内面的な無感覚を特徴としているために、また劣等感を隠そうとして純潔が傷つけられそうなふりをしているために、男性には、堂々としかし優しく―あたかも騎士のように―周知の女性的な欠点を耐えねばならぬという得な役割が与えられる。とくに男性は、少女が頼りなさを顕わにしている様子に心ひかれる。
P117
噂の範囲でしかないが、カレンとリチャードの兄姉を超えただろうといわれる関係のことが、上記の近親相姦云々という箇所から連想された。あるいはカレンが摂食障害を繰り返したという事実、そのことはホルモン・バランスの異常につながるだろうし、即ちそれは女性独自の営みが衰えるという箇所に一致する。
それでも、否、それだからこそカーペンターズの音楽は時空を超え存在する。それも、オンタイムの当時よりも一層の光彩を放ちながら。僕は胸が締め付けられるほどの感動を覚えた。
Duke Ellington作(リチャードのアレンジ)の”Caravan”に始まる1枚目。カレンがドラムスを叩き、リチャードがピアノを弾くこのトリオこそがカーペンターズの元型。ここから歴史はスタートするが、まだまだ後の洗練された「歌」はなく、極めて素朴な原石としての彼らがある。
2枚目は、いよいよソフィスティケートされ、トップスターに躍り出る彼らの全盛期の「歌」たち(”Superstar”、”Top Of The World”、”Yesterday Once More”などに代表される)。そして、3枚目ではカレンの歌が俗から聖へと転化してゆく。”Christ Is Born”や”White Christmas”、”Ave Maria”の神々しさ。しかし、これは彼女の欺きだ。本性を知られないようにあえて鎧を被り、自らすら騙しゆく手法。それに反応するかのように実は聴衆が離れていったのではないのか。それゆえか4枚目の歌たちは哀しい。1978年から1982年にかけての歌が収録される。
“Because We Are In Love (The Wedding Song)”も”Now”(カレン最後のレコーディング)もカーペンターズらしい歌には違いないけれど、どこか痛々しい・・・。
カレン・カーペンターが亡くなって今年で早30年・・・。カーペンターズを聴いて、そんなことを考えた。
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カレン・カーペンター没後30年ですね。
突然の訃報を聞いた時の驚きはいまでも覚えています。
>木曽のあばら屋様
時の経過はあっという間ですね。
僕もよく覚えております。