John Coltrane “The Complete 1961 Village Vanguard Recordings”を聴いて思ふ

coltrane_1961_vanguard_2ジョン・コルトレーンは神、導師(グル)になろうとしたことがそもそも問題だった。彼ほどの音楽家であれば、それを慕って集まる同志は多かったのだけれど、いわゆる「才能」が結果として離れてゆき、最後に残ったのは彼を崇拝するアーティストだけになった。あくまで僕の個人的見解だけれど、マイルス・デイヴィスの言葉にそのことを裏付けるヒントを見つけた。

オーネット・コールマン、セシル・テイラー、ジョン・コルトレーンといったフリーをやっていた連中のすべてが、当時、白人批評家達にどれだけ利用されていたか。彼らがそれをわかっていたとは、今でもオレには考えられない。トレーンがやっていたことさえ含めて、オレは自分の好みとして、当時のほとんどの演奏が気に入らなかった。オレは、トレーンがオレのバンドでやったことそれも初めの2,3年間にやったことのほうが好きだった。ところが今やトレーンは、自分のために演奏するだけで、バンドのためにやっているとは思えなかった。オレはいつだって、バンドとして、一緒にやって初めてすばらしい音楽ができると考えていた。
「マイルス・デイビス自叙伝Ⅱ」P96

彼の演奏は、中でもライブ・パフォーマンスは晩年になるにつれ長尺化し、孤高の境地に至った。緊張を強いられるものの、半端な思いでは必ず弛緩を呼ぶ危うさを持っていた。そのことはすでに1961年の、あの有名なヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏に垣間見ることができる。エリック・ドルフィーをはじめとする天才たちと、後の黄金カルテットのメンバーとが入り乱れてジョンを触発し、そしてジョンの先導の下、驚異的なパフォーマンスを繰り広げる唯一無二の記録は、ともすると自己陶酔的な演奏に捉えられかねないもの。しかしながら、ここには「真実」があり、「衝撃」があるのである。おそらくこれがジョン・コルトレーンの目指したギリギリの「ゼロ・ポイント」ではなかったか。その意味では、この時点で彼は完成しており、もはや以降の挑戦は不要のものだったと言っても言い過ぎでないかも・・・。(言い過ぎか?笑)

John Coltrane:The Complete 1961 Village Vanguard Recordings Disc 2(1961.11.1&2Live)

“Brasilia”
“Chasin’ Another Trane”
“India”
“Spiritual”
“Softly as in a Morning Sunrise”

Personnel
John Coltrane (ss, ts)
Eric Dolphy (as, b cl)
Garvin Bushell (oboe, contrabassoon)
McCoy Tyner (p)
Jimmy Garrison, Reggie Workman (b)
Elvin Jones, Roy Haynes  (d)
Ahmed Abdul-Malik (oud)

もう一度マイルスの言葉を引用する。

トレーンは胸の内を見せなかったし、お互いに自分のことで忙しくて、あまり会ってもいなかった。オレもずっと病気がちだったから、最後に彼と会ったときには、いかに病気がつまらないものかを話したような気がする。だがその時だって、彼は自分の具合が悪いなんて、ただの一言も口に出さなかった。トレーンはそんなふうに秘密主義で、1967年7月17日に死ぬ一日前になって、初めて病院に行ったんだ。肝硬変に痛めつけられて、もうそれ以上我慢できなくなったんだろう。
~「マイルス・デイビス自叙伝Ⅱ」P119

何という壮絶さ、そして孤独!!!「上(かみ)」を目指し、「上(かみ=神)」になり切れなかった「上(かみ)」はやっぱり自己中心的で「不安」と闘っていたんだ・・・。

トレーンの音楽と、彼が最後の2,3年間にしていた演奏は、多くの黒人にとって、特に黒人の若い知識層や革命論者の間では、彼らが感じていた炎、情熱、激情、怒り、反抗と愛情を代弁するものだった。
~同上P119

行き過ぎたコルトレーンの姿がここにある。やっぱり彼の演奏史の絶頂は1961年のヴィレッジ・ヴァンガードかもしれない。

 


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