
底なしのイマジネーション。
でき上った映画はどれもがあまりに深い。
というより、解釈の幅が広過ぎるゆえ、だからこそタルコフスキーの世界にひとたびはまると、蟻地獄の如く終わりなく引きずり込まれるのだ。
日本古典詩が、つねに私を驚かせるのは、それがイメージの最終的意味を暗示することさえ原理的に拒絶していることです。字謎(シャラード)なら、最後には解釈に身を委ねます。日本の俳句や短歌が、イメージを培養するために使う手段というのは、それを使うと最終的意味を失うことになりかねないような手段なのです。俳句や短歌は、それ自体のほかにはなにも意味していません。にもかかわらず、非常に多くのことを意味しています。ですから、その本質を捉えるための長い道を辿っていくと、最後に、最終的意味を捉えることは不可能なのだということを自覚させられるのです言いかえれば、イメージは、視野の狭い、概念的な形式に嵌めこむのが難しいものほど、その使命に正確に答えているというわけです。
俳句の読者は、自然に溶け込むように、俳句のなかに溶け込まなければなりません。俳句に没頭し、その深みのなかで我を忘れなければならないのです。上限も下限もない宇宙のなかに沈んでいくように、そのなかに沈んでいかなければならないわけです。俳句の芸術的イメージはきわめて深淵なので、その深さを測定することは全く不可能です。こうしたイメージが、生きた直接的観察から生みだされるのです。
(訳・構成=鴻英良「タルコフスキーによるタルコフスキー パート1、映像の自立性」)
~「月刊イメージフォーラム」1987・3増刊No.80追悼・増補版「タルコフスキー、好きッ!」(ダゲレオ出版)P71
受け手に必要とされるエンドレスな想像力は、タルコフスキーの映画にもそのまま当てはまる。彼が芭蕉に影響を受けたことは間違いない。そして彼は続ける。
日本人は、たった3行で、世界に対する関係を表現できたのです。彼らは現実を観察しただけではありません。観察しながら、その意味を表現したのです。正確で具体的であるほど。観察は、それだけユニークなものになる、反復不可能なものであればあるほど、それだけイメージに近づくのです。人生はどんな虚構よりも幻想的だと語ったのは、ドストエフスキーでした。観察は映画的映像の基本原理なのです。
~同上書P71
日本人の感性の美しさ、シンプルさを象徴する言葉だ。
「ノスタルジア」の冒頭を思う。
ヴェルディのレクイエムから「入祭文〈レクイエム〉とキリエ」が幻想的な映像をさらに幻想的にする。
タルコフスキーの映画は、常に調和と希望のトーン、永遠に失われたように思えたものへの明るい回帰で終わる。『ノスタルジア』と『サクリファイス』は、現代に、存在するこの世界の境界を越えた別の現実のうちに溶け込んでいる。それはイタリアであり、北海のどこかの小さな島である。それは、文化の古い敷石と、その快適さと、その理念的、政治的闘争の張り詰めた活力を持った現代ヨーロッパなのだ。原子力の黙示録を前に、不信と恐怖にうちひしがれた人間のいるヨーロッパである。「団欒はない。安らぎもない」、けれど剝き出しの神経、自分自身への倦怠感、孤独、他人との接触の複雑な軋轢は存在する。
(ヴェーラ・シートワ/大月晶子訳「魂の中心への旅」)
~アネッタ・ミハイロヴナ・サンドレル編/沼野充義監修「タルコフスキーの世界」(キネマ旬報社)P204
暗に東洋世界への憧れを説くアンドレイ・タルコフスキーの真骨頂。
朝比奈隆のヴェルディを聴く。
大阪はフェスティバルホールでのライヴ録音。
おそらく副指揮者の堀さんのサポートなくして成せなかったであろう御大のヴェルディだが、ごつごつした、いつものような愚直な表現が朝比奈御大ならではで、個人的にとてもシンパシーを感じる1枚。願わくば東京で舞台にかけてほしかったところだが、実演で聴いた時にどれほどの感動が伝わったのか知りたいもの。
(御大が最も輝いていた、そしてまた文化勲章受章によって圧倒的人気を獲得した翌年のライヴだけになおさら)
往く年、来る年。
今年も大変お世話になりました。
来年もまたよろしくお願いします。
