晩春の自然讃歌。
自然は芽吹き、太陽は燦燦と照り輝く。
生きている実感が最も湧く時期をこれほど豊かに音化した例が他にあるのかどうか。
出版時、先入観にとらわれないようマーラーはあえて標題を引っ込めたのだろうか。
あるいは、通説どおり標題音楽が持て囃された時代への抗いなのだろうか。
いずれにせよ音楽は、あるときは厳しく、またあるときは優しい。
大宇宙の鳴動と、生きとし生けるもの、つまり小宇宙がフラクタルであり、その描写音楽を100数十年も前に彼は見事に創り出した。
壮年期のレナード・バーンスタインの確たる再生がまたツボにはまる。
後年の再録音は粘着質の、晩年のバーンスタイン節満載の演奏だったが、こちらはいかにも客観的で(?)冷静な演奏のように聴こえる。その分、味は薄いが、マーラーの音楽そのものを堪能できるので嬉しい。
これほど晴れやかで、明朗な音楽だったのかと思わず唸る。
決して標題に左右されるものではないが、作曲者による本来の標題の見事さよ。特に第2部、すなわち第2楽章以降の、生死を超えた生命活動を讃える音楽の素晴らしさ。バーンスタインはマーラーのすべてを理解し、この作品の再生に挑んでいるのだと思われる。
なお、独奏ヴァイオリンを務めるジョン・コリリアーノは現代作曲家であるジョン・コリリアーノの父親で、当時、ニューヨーク・フィルハーモニックのコンサートマスターだった。
おお、人間よ! 心せよ!
深い真夜中は何を語るか?
「わたしは眠っていた、わたしは眠っていた—、
深い夢からわたしは目ざめた。—
世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の苦痛は深い—、
快楽は—心の悩みよりもさらに深い。
苦痛は語る、過ぎ去れ! と。
しかし一切の快楽は永遠を欲する―、
—深い、深い永遠を欲する!」
~吉沢伝三郎訳「ニーチェ全集10 ツァラトゥストラ(下)」(ちくま学芸文庫)P345-346
この世界は文字通り仮の世界であることを(ニーチェはもちろん)マーラーは知っていた。第4楽章におけるリプトンの独唱がまた深く、心に染みる。
そしてまた、続く第5楽章(交響曲第4番終楽章と双生児)の天使の歌に心が弾む。
しかし、傑作はやっぱり終楽章の永遠だ。