シューリヒト指揮ウィーン・フィルのブルックナー交響曲第8番(1963.12.7Live)を聴いて思ふ

bruckner_8_schuricht_vpo_1963live581意志の勝利とでも表現しようか。
1963年の「ヴィルヘルム・フルトヴェングラー記念演奏会」でのとても人間的なアントン・ブルックナー。
ブルックナーのいわば俗なる側面が強調された演奏。音楽は燃え、隅から隅まで熱を帯び、楽器は時に下品なほどうなる。この日のシューリヒトは、それこそフルトヴェングラーの魂が憑依したかの如く、我を忘れるほどに作品に没頭し、人間味溢れる演奏を繰り広げたよう。
ライブならではの瑕は当然ある。
しかし、沈着冷静で即物的な印象のあるシューリヒトが、羽目は外さないにせよギリギリのラインで自己をぶちまけた決死の名演奏だと僕は思う。

これは演奏会ではない。音楽的頂点における至福の時であり、贈り物として受けとめられ、生涯忘れられることはない。批評は空虚となり、後に残るのは感動と深い感謝の思いである。
ミシェル・シェヴィ著/扇田慎平・塚本由理子・佐藤正樹訳「大指揮者カール・シューリヒト―生涯と芸術」(アルファベータ)P336

この日の楽友協会大ホールは感動の坩堝と化したことだろう。
あえて言葉にすることが憚られる最高の演奏。音楽が時間と空間の芸術であり、何よりその場に居合わせないとその真髄までは絶対にわかり得ないことが証明されるような評。

・ブルックナー:交響曲第8番ハ短調
カール・シューリヒト指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1963.12.7Live)

この演奏会の2日後にスタジオ録音されたかの名盤同様、速めのテンポで颯爽と進められる第3楽章アダージョの素晴らしさ。ただし、前者が神の箴言のような崇高さを刻印にしていたのに対し、このライブはいわば肉感的で劇的。それゆえか、音楽の消えゆく様の懐かしさは言語を絶するほど美しく哀しい。
そして、同じく快速テンポの終楽章は、荒れ狂うコーダの疾走に垣間見るように音楽は常に動き、跳ねる。

かつて愛読し、影響を受けた(先日逝去された)宇野功芳さんの文章を思い出す。

ブルックナーは神の創造した大自然を、さらには大宇宙を讃美している。その悠久に息をのんでいる。しかし、それらに比べて人間のいのちの何と短くはかないことであろうか。その寂寥感にブルックナーの心は震えるが、それならばこそ彼はいっそう天国を憧れる。滅びゆくもの人間も神の創造物であり、滅びゆくこと自体に神の摂理、大宇宙の秩序があるのだ。その叡智、その深い瞑想がブルックナーの音楽の本質である。彼は神を信じ切っている。
~「レコード芸術」1982年11月号P192

ブルックナーを識る道は「直観」以外の何ものでもない。ブルックナーの音楽のふるさとは自然であり、宇宙であり、神である。従って、自然を愛する心、神を信じようとする心の持主が、直観力を研ぎ澄ませていれば、ある日突然に理解できるであろう。
~同上誌P192

当時18歳の無垢な僕はこういう言葉にやられてしまったのである。
宇野さんの功罪というものは果たしてあるのだろうか・・・?

 

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2 COMMENTS

雅之

>宇野さんの功罪というものは果たしてあるのだろうか・・・?

大ありでしょうね(笑)。

宇野さんの功績は、朝比奈先生の芸術価値を世に広めたことに尽きるんじゃないでしょうか。

それ以外は現在冷静に考えると???も多かったと思います。

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岡本 浩和

>雅之様

>大ありでしょうね(笑)。

やっぱりですか!
しかし、ひとつでも功があるならこの際、罪については見逃して差し上げるというのもありでしょう。
偉そうですが。(笑)

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