
結婚は5年間続いた。1974年、二人がカナダと日本へツアーに出たとき、マルタはシャルリーの態度に怪しいものを嗅ぎつけた。飛行機の客室に裏切りの臭いが流れた。マルタは彼を質問攻めにした。彼は疑惑をすべて否定した。オタワでの演奏会のあと、夜中になってようやく女がいると白状した。そのあともマルタは猛攻の手を休めなかった。「誰なの?」だが、シャルリーは口を閉ざし、慎重に沈黙を守った。それを知ってしまえば、もう気がすんだとばかりにあとのことは何も気にせず、演奏旅行の予定を放りだして彼女が飛びだしていくとわかっていたのだ。
~オリヴィエ・ベラミー著/藤本優子訳「マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法」(音楽之友社)P191-192
天才音楽家がそもそも一所に落ち着くこと自体が珍しいこと。
彼らにとって浮気や色事は当たり前のこと(?)であり、嫉妬や恨み辛みも一方で当然のことなのだ。
芸術家に品行方正を求めること自体ナンセンスなのだろうと思う。
こんなエピソードがある。
同じ年、シャルル・デュトワは彼女にチャイコフスキーの協奏曲第1番を録音させようとした。「説得は至難のわざだったよ!」マルタは頑として拒絶した。彼はあきらめなかった。彼女は意地になっていた。これほどヴィルトゥオーソ的な曲を弾ききる腕の持ち主がいるとすれば、それは彼女以外にありえなかった。が、つねに凝り性な彼女はその協奏曲を演奏することによる利点を見いだせず、たとえ難曲を完璧に演奏できるとわかってはいても、どうしても弾きたいと思うだけのものを感じなかったのだ。シャルル・デュトワのほうはスタジオとオーケストラを確保し、思いどおりになると疑いもせずにいたが、そんなタイミングで自動車事故に遭ってしまった。
~同上書P189
2023アルゲリッチ音楽祭(コロン劇場)。
アンコールに応えようとしないマルタに対してシャルルは説得する。
何度もバックステージに入ってはステージに出て、それを繰り返しているうちにマルタはついに折れた。諦めの悪い(?)シャルルの勝ち(随分説得したように見える)。
致し方なしという表情で徐に紡ぎ出すアンコールのシューマンがまた美しい。

・ベートーヴェン:ピアノ、合唱と管弦楽のための幻想曲ハ短調作品80(1808)
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
コロン劇場合唱団
シャルル・デュトワ指揮コロン劇場管弦楽団(2023.7.30Live)
アルゲリッチはこの曲を得意とする。
最終的に「第九」へと結実する歓喜の音楽は、合唱、管弦楽との三位一体を体現する。

また私はあなたにまったく新しい大シンフォニーのスコアも提供します、しかしそれを出版できるのはようやく1825年です(ロンドン音楽愛好家協会の占有権は送達が郵便事情で(?)大幅に遅れたことにより1826.06.まで)。それには合唱・独唱付きの大規模なフィナーレが付いていて、私のPfファンタジーより大規模に演奏されます。報酬は60グルデン約定価です。後にあなたは新しい四重奏曲も得ますが、これらを先に出版しなければなりません。
(1824年2月25日付、M.シュレサンジェ宛)
~大崎滋生著「ベートーヴェン 完全詳細年譜」(春秋社)P435
この祝祭的音楽の源泉は、やはりシラーの「歓喜に寄せて」ということだが、時間をかけて最晩年の大シンフォニーにつながってゆく奇蹟を知る僕たちは、かつて夫婦だったデュトワとアルゲリッチの協同作業に文字通り歓喜を見出すのである。
2023アルゲリッチ音楽祭。
静謐で、優雅なピアノと管弦楽の協奏をメインとする前半の崇高さと、徐々に音楽は力を増し、後半、合唱とピアノが交差しながら芸術讃歌へとつながる流れはまさにベートーヴェンの得意とする「暗から明へ」の音化であり、クライマックスのカタルシスは半端でない。
それは、聴衆の歓喜と怒涛の拍手喝采を見れば明らかだ。


