イングリッシュ・ナショナル・オペラ2001 ブリテンの歌劇「ルクレツィアの凌辱」を観て思ふ

britten_the_rape_of_lucretia_2001632ある日突然、きれいな花までもが汚らわしい存在になる。
すべては意識、心の反映なのである。
果たして世界は悲劇かも知れぬ、あるいは喜劇かも知れぬ。
すべては認識であり、認識が変われば自ずと世界は変わるということだ。

ターキニアスの内なる悪魔が囁く。
「行け、ターキニアス!―美こそが人生のすべてだ」
ルクレツィアは苦悩の胸中で応える。
「これが美のせいなら、美こそ罪」

第2幕において、オルラ・ボイラン演ずる女性の語り手はかく語る。
「ローマ人が生み出した芸術作品には、創造への情熱と同時に復讐願望が隠されている」
対し、ジョン・マーク・エインズリー演ずる男性の語り手は次のように応えるのだ。
「悲劇とは人間の尺度であり、希望とは神を垣間見ること。ああキリストよ、我等の盲目を癒したまえ」

神ですら人間の尺度だ。
嗚呼、世界は矛盾の中に在る。
世界を客観視できれば人生は面白い。
歌劇「ルクレツィアの凌辱」を観た。
ベンジャミン・ブリテンの音楽による心理描写が素晴らしい。
原罪はそもそも肉体を持ったことにあるという。肉体と精神が一致しないことが様々な罪を作り出すのだろう。そして、僕たちの内側にあるのは、聖と俗の葛藤だということだろう。

イングリッシュ・ナショナル・オペラ2001
オールドバラ音楽祭ライブ
・ブリテン:歌劇「ルクレツィアの凌辱」作品37
サラ・コノリー(コラティヌスの妻ルクレツィア、メゾソプラノ)
クリストファー・マルトマン(エトルリアの王子ターキニアス)
ジョン・マーク・エインズリー(男性の語り手、テノール)
オルラ・ボイラン(女性の語り手、ソプラノ)
クライヴ・ベイリー(コラティナス、バス)
リー・メルローズ(ジュニアス、バリトン)
キャサリン・ウィン=ロジャーズ(召使ビアンカ、メゾソプラノ)
マリー・ネルソン(召使ルシア、ソプラノ)
ポール・ダニエル指揮イングリッシュ・ナショナル・オペラ管弦楽団
デイヴィッド・マクヴィカー(演出)(2001.6Live)

ルクレツィアのモチーフが脳内を駆け巡り、離れない。
何より第2幕、息つく間もない物語の展開と、それに準ずるブリテンの音楽のエロス!
同性愛者であった作曲家の抑圧されたエロスと、おそらく愛する夫コラティヌスに誓った操に相対するルクレツィアの内なる無意識下のエロスが見事にリンクするようだ。
ブリテン自身も相当に葛藤があったのだろう。音楽は放物線を描きながらクライマックスに達し、そして静かに沈潜してゆく。その後の、残された音楽の空虚さ、あるいは暗黒の清らかさ。

さて・・・思い切って踏み切り、おなじみルクレツィアが進行中だ・・・大丈夫だと思うが、いつもどおり、この段階では怖じ気づいている。曲を始めるのは、いやでたまらない。いつも、石炭運びかバスの運転手か、そんな仕事をしていればよかったと後悔する。自分ではどうにもならないものに頼らずに済む仕事ではなくて。
(1946年1月24日付、ピーター・ピアーズ宛手紙)
デイヴィッド・マシューズ著/中村ひろ子訳「ベンジャミン・ブリテン」(春秋社)P112

1946年7月12日の初演では、キャスリーン・フェリアーがルクレツィアを演じている(指揮はエルネスト・アンセルメ)。
2001年、オールドバラ音楽祭での主役はサラ・コノリーだが、彼女のリアルな名演技に、そして名歌唱に感動を覚えずにいられない。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


音楽(全般) ブログランキングへ


3 COMMENTS

雅之

>ある日突然、きれいな花までもが汚らわしい存在になる。
すべては意識、心の反映なのである。

・・・・・本というものは不思議なもので、かなりの年月を経て読み返せば、以前とは相当に異なった印象を受ける時がある。前にはたいへんに面白く感銘を受けたものが、再び読めばどうも色あせて感じることもあれば、またその逆もある。・・・・・・(異論のススメ)スモール・イズ・ビューティフル 今こそ問われる成長の「質」 佐伯啓思 2016年9月2日 朝日新聞デジタルより

http://www.asahi.com/articles/DA3S12539061.html

今の私は、岡本様のように次から次へと毎日休むことなく違う音楽を聴き続ける芸当など到底不可能です。だから心から羨ましく思います。

今の私は、よい音楽を聴いたら、むしろ1週間くらい何も音楽を聴かずに、ボーっと感銘の余韻に浸っていたいほうです。昨日音楽を聴いて感動して翌日には別な音楽を聴いて感動するなどという一連の忙しい行為は、「余韻を掻き消す」という意味では、フライング・ブラボーやフライング・拍手に近いのでは?などと不謹慎なことを考えたりします(すみません)。

そういう私も、昔は1日で複数のコンサートのハシゴ聴きをやったりしていましたが、「感動のインフレーション」になるだけだったと反省しています。本当の贅沢は別にあるのではなかったかと・・・。情報量があんなに少なかった高校時代のほうが、音楽との関係は今よりも遥かに幸せだったと・・・。

>すべては認識であり、認識が変われば自ずと世界は変わるということだ。

そう、あくまでも私個人の現時点での認識に過ぎません。きっと、明日はまた考えが変わることでしょう(笑)。

返信する
岡本 浩和

>雅之様

音楽の聴き方も時代や状況や、そういったものに左右されますよね。
おっしゃるように情報量が少なく、常に空腹状態だった高校時代の感動は今とは比べ物にならないものだったろうと思います。

一方で、朝から晩まで音楽三昧という生活に憧れていたというのもありまして、良いか悪いかは別にして、あの頃できなかったことがようやくできるようになったという意味では幸せを感じます。
とはいえ、こういう聴き方もある程度の年齢を過ぎれば「過ぎたれば・・・」ということで、これも自ずと卒業が来るのでしょう。雅之さんとの年齢差は3歳ですから、この3年という年の差がきっと大きいのだと思います。(笑)
僕も3年後には悟りの境地に入れることを願って・・・。(笑)
ありがとうございます。

返信する

ジャネット・ベイカー レッパード指揮イギリス室内管 ヘンデル カンタータ「ルクレツィア」(1972.10録音)ほか | アレグロ・コン・ブリオ へ返信するコメントをキャンセル

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む