ブル7三昧

bruckner_7_inbal.jpg僕の場合、何か(あるいは誰か)に乗っかって「やるべきこと」を進めるのではなく、自力で「事」を推し進めた方が圧倒的に良いらしい。つい先日から同じようなことを考えていた。人間はついつい楽をするために安易な方法を模索することがあるが、結局「自分がやりたいこと」をやり遂げるには、人を頼ることなく単身でやれということだ。もちろん協力を仰ぐのはいい。自分が中心にいることが大事だということだ。

過去のこだわりは捨てること。古びた鎧を着たままで開放はできぬ。全く無意識なのだが、頭にこびりついた癖はなかなかそう簡単には抜けないもの。決して変らなくてもよい。「気づく」だけでいいのだ。

朝早くに起き、資料作り。なるほど早朝の陽光を浴びながらの仕事は効率が良い。都立大学にトリートメントに出掛けたついでに原宿で散髪。帰宅したのは夕方近く。そして週末の講座に向け音盤の最終チェック。ブルックナーの第7交響曲を何枚か部分聴きした。煩雑な版の問題を抱えている作曲家だけあり、いろいろな意味で聴き応え十分。初演当初から圧倒的な成功を治めた第7交響曲に限っていうならそれほど複雑な相違は見られないゆえ、いくつかのポイントを絞りながら聴き比べると面白い。

最も有名な個所は、第2楽章のクライマックスでの「ティンパニ、トライアングル、シンバル」の有無。自筆楽譜に付されていた「無効」という鉛筆書きの文字をブルックナーの直筆と判断したロベルト・ハースによる旧全集版の解釈での演奏は、朝比奈御大のものとギュンター・ヴァントのものを。そしてブルックナーの書いたものでないと判断したレオポルト・ノヴァークによる新全集版の解釈での演奏は、ヨッフム&アムステルダム・コンセルトヘボウによる最後の来日公演盤
さらに、ノヴァーク版とはいえティンパニのロールだけを追加したインバル&フランクフルト放送響による演奏。好みの問題は別にして、これだけ多種多様で、様々な解釈の演奏が楽しめる作曲家は古今東西広しといえども稀。ブルックナーを鑑賞する醍醐味ここにあり、という感じである。

ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ノヴァーク版)
エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団

20年以上前、インバルが手兵のフランクフルト放送響を率いてブルックナーの第1稿による交響曲録音をリリースし始めた時は度肝を抜かれた。まだまだ作曲家に対し知識が浅かったせいもあり、まさかこういうバージョンが存在するとは知らなかったこともあるが、第8交響曲や第3交響曲の初稿の荒削りなところが新鮮でとても気に入った。第4交響曲にいたってはスケルツォがそっくりそのまま別の音楽だったときには腰を抜かした(大袈裟!)。この第7交響曲は残念ながら可もなく不可もなくという無難な演奏。さすがに何度も繰り返し聴くほどの普遍性は持たない。

古びた鎧を着たままで開放はできぬ・・・。


5 COMMENTS

雅之

こんばんは。
版の問題について演奏する側からつけ加えますと、ハース版もノヴァーク版も、高額な楽譜のレンタル料がかかるんですよ。両版を混合したり、微妙にスコアを改変して版を特定されないようにし、単に「原典版」などと称してCDを販売している場合には、こうした現実的な問題も絡んでいます。
先日のコメントの続きですが、CDもネット配信も放送もないブルックナーの生きていた時代、一般の音楽好きがブルックナーの交響曲を何度も聴くことなど、そうそう出来ませんでしたよね。当然、大多数の聴衆にとって曲の予習などはまず不可能です。そうした、初めて聴く、おそらく一期一会になるであろう聴衆を相手に、難解な曲を印象付けて感動に導くには、「ティンパニ、トライアングル、シンバル」など打楽器を追加したり、ロマン派的テンポ変化など濃い表情付けも必要だと、初演の関係者や弟子、それに作曲者ブルックナーも考えたのは、必然の結論だったと私は思います。興行を成功に導かなければならなかったのですから。シャルクやレーヴェがやった「改訂」だって、CDなどを繰り返し聴いて、曲を熟知した人向けではないでしょう。そもそも用途が異なるんですから、現代の我々の価値観で良い悪いの判断を下すのは、御門違いだと思います。
今、通勤途中に読んでいる、《『こころ』は本当に名作か》(小谷野敦著 新潮新書)に、こんな一節があります。
・・・・・・SFや推理小説、ファンタジーなどでない限り、人は作者や、書かれた時代について何も知らずに小説を読むなどということはできない。漱石の『三四郎』を例にとると、大学で三四郎は与次郎に出会って、ライスカレーをご馳走になる。実はライスカレーはその当時、登場したばかりのハイカラな料理だった。だがそのことを知らないと、大学構内の食堂でカレーライスを食べるなどとショボい話だなあ、と思ってしまう。・・・・・・
CDを腐るほど所有して、古今の名盤を聴きまくって、街なかで聴きたくもない垂れ流しのBGMを聴かされる刺激過剰に慣れきった私たちに、ブルックナーの交響曲で濃厚な表情付けは、うっとおしいだけです。しかし、19世紀の聴衆にとっては、、「ティンパニ、トライアングル、シンバル」は、ライスカレーのスパイスように、忘れられない心地よい刺激になったのではないでしょうか?

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雅之

補足
楽譜のレンタル料について、面白いサイトを二つ見つけました。
http://www.vc-net.ne.jp/~laurd/score/al/2.html
http://seeds.whitesnow.jp/blog/archives/2004/07/post_43.html
実際、私もアマオケに所属していた時、この件で苦労したことが何回もあります。
×ライスカレーのスパイスように→○ライスカレーのスパイスのように
いつもミスタッチが多くすみませんm(__)m

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
おっしゃるとおりですね。さすがは雅之さんです。
確かにその音楽が創造された「時代性」まで考慮して物事を捉えるべきですね。音楽に限らず「様々な角度から物を見れる、判断できる」ことって大切ですよね。
>打楽器を追加したり、ロマン派的テンポ変化など濃い表情付けも必要だと、初演の関係者や弟子、それに作曲者ブルックナーも考えたのは、必然の結論だったと私は思います。
確かに!
>シャルクやレーヴェがやった「改訂」だって、CDなどを繰り返し聴いて、曲を熟知した人向けではないでしょう。そもそも用途が異なるんですから、現代の我々の価値観で良い悪いの判断を下すのは、御門違いだと思います。
これも納得です!
>楽譜のレンタル料について、面白いサイト
なるほど、こういう事実は知りませんでした。いろいろと気づきを与えていただきありがとうございます。感謝です。

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雅之

こんばんは。
ニキシュ 29歳(以下N)「先生、芸術至上主義だけでは、我々は飯を食って行けませんよ! 先生の曲は、初めて聴く聴衆には、多分100%理解不可能です。ワーグナー先生の歌劇は長くても舞台があるから、まだ取っ付きやすいですが、先生のは歌のない交響曲が中心ですからねぇ。指揮者の僕たちだって、作品の本当の偉大さに気付くまでに、相当の勉強を重ねていますよ。先生、耳の痛い話で恐縮ですが、この前、先生の別な交響曲の演奏会で配ったアンケートを回収したら、特に女性客はみんなソッポ向いていたことがわかりました」
ブルックナー 60歳(以下B)「・・・・・・・・」
シャルク 21歳(以下S)「女性ファンがいないということは、それだけで先生を支持する観客層が半分になるということですからね、ニキシュ先輩のおっしゃるように、これは痛いです。男性のマニアックな少数のコアな層だけを相手にしていたら、コンサートの興行なんて成功するわけないですから。 20世紀のことは知りませんけどね、目先の現実を逃げずに見据えなきゃ、です」
B「じゃあ、7番の初演はどうしたらいいと、君たちは思う?」
N「ロマンチックなテンポ変化を曲の解釈に採り入れましょう。これだけでも、特に女性客や初心者の印象は随分変化すると思います」
S「この前、先生は消しちゃいましたけど、トライアングルやシンバルは残しといたほうがいいと思います。女性は《光りもの》に弱いですし・・・」
B「なるほど!君たちの意見はもっともだ!君たち指揮者やオケの諸君他、関係者の努力があってこそ、私は曲を演奏に漕ぎ着けられ、成功の暁には皆や私の名声も得られるというものだ。何とか客を喜ばせてコンサートを成功させ、再演を重ねられ、君たち若い諸君の実入りを良くして労をねぎらいたいものだ。
よし、その方針でいこう!」
N「先生、初演の指揮は任せといてください!私は29歳でまだ若いですけど、どんなベテラン指揮者にも負けませんから!」
S「僕だってニキシュ先輩より8歳も年下の21歳だけど、先生の優秀な弟子である僕は、先生の曲の解釈では絶対誰にも負けないつもりです!」
B「何と、頼もしい!!、ありがとう!!ありがとう!!(涙)」
案外、交響曲第7番の改定にまつわる話って、こんな感じの打ち合わせで決まったのかも知れませんよ(爆)。

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